食事をしようセレナーデ

久しぶりに会う父親の姿は腰が曲がっていた。何年ぶりだろうか?コロナ騒動が起きてからというもの、たまに電話で話したりもしたのだが、どの家もそうであるように、父親からも実家(いえ)には近寄るなと言われ自重(じちょう)していたところ、先日、次の第六波がいつ来るかわからないので、感染者数が落ち着いている今こそ、実家に久しぶりに戻って来いと言われたのである。

土産(みやげ)など何も要(い)らないから、手ぶらで戻って来いと言われたのだが、何も持って行かないというのも気が引けたので、東京駅の駅弁屋でなぜだか北海道名物の「森のいかめし」ひとつを買って、持って行った。(笑)

我が家の実家(じっか)事情は、自慢するほどでもないが複雑で、(笑)このウエブ上で公開するのもなんだかためらわれるので説明しないが、とりあえず父親は今、田舎(いなか)のマンションで一人暮らしをしている。前回帰った時には、90歳にもなろう老人が、眼鏡(めがね)もかけずにガンガンに高速道路で車(くるま)を飛ばしていて、危ないから、もう運転止めたら!と言うのだが、言う事を聞かないので、叔母(おば)の年賀状に父親を説得してくださいと書いたりして工作(こうさく)をおこなうと、その甲斐(かい)あってか、ようやく車の運転免許も返納(へんのう)してくれた。(笑)

田舎のショッピングモールの前で待ち合わせたのだが、腰の曲がった父親が、自分を見上げて、”お前、背が伸びたな~!”と言うのである。(笑)”いや、伸びてないですよ。縮(ちぢ)んでます。お父さんの腰の曲がり方(かた)の方(ほう)が、私の背が縮むのより早いんです!”と返すのだが、一向(いっこう)に”お前、大きくなったな~!”と不思議な顔をするのであった。

90歳を超えた腰の曲がった老人と、背が縮みはじめた初老(しょろう)間際(まぎわ)の老人二人で、そこのショッピングモールで食べ物の買い出しをおこなった。ショッピングモールはとても広くて、何でも売っていて、”お前、なにが食べたい?好きなもの言え。なんでも買ってやる。”と言われ、腰の曲がった老人は杖(つえ)の代わりに大きな買い物用のショッピングカートを押した。

初老を迎えそうな老人は、適当に”これがいい。”とか言うのだが、最終的にはいつもその90歳を超えた腰の曲がった老人が”いや、この刺身(さしみ)は色が悪い。こっちの方がいい!”とか言いはじめ、言いくるめられてしまい、腰の曲がった老人が数日前から思い描いていた予定通りの買い物になるのであった。(笑)若い頃からいつもそうだ。子供の意見を形だけ聞くだけで、最終的には自分の思いを通そうとする。(笑)

老人二人では食べきれないような量の食べ物を買って、でかい今風のショッピングモールを出てタクシーで実家(いえ)に帰った。もう夕方で、父親は大体スケジュールを組んでいるので、どんな予定になっているのだろう?と思っていると、風呂に入ってから、飯(めし)を喰おう、お前先に入れと言われ、風呂から上がって出て来ると、父親が台所で料理を始めていた。手伝おうか?と言うのだが、要(い)らない、自分でやると言う。腰を曲げながら、ご飯を炊いて、味噌汁を作ろうとしていた。

何にもすることがないので、テーブルで父親の鼻唄を聞きながら、まだ手のつけられていない新聞を読んだ。昔からそうだ、自分が実家(いえ)に戻って来る日には、なぜだか父親はその日の新聞に手をつけなくて、皺(しわ)ひとつない新聞を自分に読ませてくれる。

父親の鼻唄がさらに大きくなった、なんだかご機嫌(きげん)だ。何を唄っているのだろう?子供の頃は、キャッチボールの相手をしてくれる時に、「上海帰りのリル」という古い歌をいつも口ずさんでいた。

”リ~ル。リ~ル。どこにいるのか?リ~ル。誰かリ~ルを知らないか?上海帰り~の~!リル、リル。”

この歌詞を猛烈に喉(のど)のコブシを回して唄うのである。耳にこびりついて離れないので、「火の玉」という自分の曲にも歌詞の中に「上海帰りのリル」という言葉を使っていたりもする。(笑) カラオケが流行っていた時には、大川栄作の「さざんかの宿」が十八番だった。この演歌を肩を怒らせてコブシをこれでもかと思うくらいに回して歌っていたのだが、今晩の鼻唄は、 「上海帰りのリル」 や 「さざんかの宿」 ではなくて、聞いたことのないものだった。しかもあまりこぶしを回してない。

鼻唄を聞いている自分としてはとてもいい!なんで昔はあんなにコブシを回していたのだろう?今の方がよほど素直な感じがして、とてもいいのに!と新聞を読みながら思ってしまった。

”料理出来たぞ!”と言われ、二人でテーブルに運んだ。父親の久しぶりの手料理だったのだが、もう何を出してくれたのか歳(とし)のせいなのか、すべてを思い出せなくなっている。(笑)ただテーブルの真ん中に買って来た刺身(さしみ)を置いて、大皿にはトンカツ一切れと、野菜がのっていた。野菜の下の手料理が思い出せない。駄目な息子だ。(笑)

父親は酒をやめて何十年になるのだが、自分だけはビールを飲んだ。食事をはじめたのだが、父親はそれまでつけていたテレビを消した。テレビの音が無くて大丈夫なのかな?会話がはずむのかな?昔、同じように父親がテレビを消して、会話だけで食事を楽しむぞ!と家族に宣言したのだが、いざ消してみると、まったく会話がはずまなくて、10分ほどでまたテレビをつけたというホロ苦い思い出がある。(笑)

ところが今晩は違った。会話が弾(はず)むは、弾(はず)む。父親が一方的に話して来る感じでもあったのだが、話を聞いている自分の気持ちも悪い気がしない。まるで恋人同士のような食事ではないか。(笑)

オレの研(と)いだ、自慢の炊き立てのご飯を食べろと言う。今の米(こめ)は昔のように、そんな研(と)がなくてもいいんですよ!とアドバイスするのだが、そんなこと知ってる!けどやっぱり、白い研(と)ぎ汁が出なくなるまで、研(と)ぎたくなるんだ!それが一番旨(うま)いだ。と言ってくる父親の顔がなんだか少年のようだ。そういえば、自分がこちらに出て来て一人暮らしを始めた時も、一緒に出て来て安アパートの部屋の中で米の研ぎ方を教えてくれたのは父親だった。

味噌汁も上手くできたから飲めと言う。確かに旨(うま)い!味噌汁も、その時に、味噌これくらいで、あとは本ダシ入れて、ハイミーを隠し味で入れるんだと教えてくれたのも父親だった。なんだか懐(なつ)かしい味だなと思ってしまい、ハイミーなんて今、体に悪いということで売ってないんじゃないの?と訊(き)こうと思ったのだがやめた。父親がせっかく自分のために作ってくれた食事にこれ以上ケチをつけたくなかったからだ。

そういえば、高校時代、母親がいない時期があって、昼間は給食ではなくて、みんな弁当持参だったのだが、父親が自分の弁当を作ってくれていた時期があった。弁当箱には装飾(そうしょく)なんて何もなくて、ただ、焼いた魚の切れが一切れ、おかずとして入っているだけのものだった。梅干しひとつだけの日の丸弁当よりはまだマシだったのだが、(笑)周りはみんなタコ足に切ったウインナーとか、緑のギザギザの仕切りが入った弁当箱を何が入っているんだろう?と期待して開けて食べ始めるのだが、自分は弁当箱を恥ずかしくてなかなか開けられなかった。(笑)

その頃にくらべて、父親は料理の腕(うで)をあげた!味もそうなのだが、なんといっても今回は、見せ方を工夫してきた。ちゃんと装飾してあるのである。(笑)恋人同士の12月なのでクリスマスの食事みたいだ。(笑)

”お前、いつまで、そんな誰も見向きもしない音楽やっているんだ?ピアノ室行ってるって聞いたけど、ピアノなんて弾けるのか?大体、お前、譜面も読めないのにどうやってピアノ弾くんだ!?”

と、あいもかわらずその夜の恋人同士のような会話の中で嫌(いや)みのように訊(き)かれたのだが、

”譜面は読めないけど、音楽に譜面は関係ないよ~。”

と、答えたら、なんだか珍しく父親は上機嫌(じょうきげん)で笑っていた。

酒の酔いが回って来たので、土産(みやげ)で買って来た「森のいかめし」の封を開けて、”こっちでいう、「峠の釜めし」や「ますずし」みたいなものだよ。イカもやわらかく煮てあって食べやすいよ~!美味しいから。”と言って、 包丁で細かく切って、その切れはしを父親にあげると、”なんだ、名物か!?”と言って美味しそうに口にほうばっていた。

自分の唄に「食事をしようセレナーデ」という曲がある。別れた恋人との楽しい記憶を思い出しながら、一人で食事をするという歌詞の一応ロマンチックな唄だ。その晩、洗い物は自分の方でやってあげたのだが、洗ったあとの食器の置き場所が違うみたいで、私が寝ついたであろう夜中に、食器の位置を父親はいつも置いてある場所に変えていた。90歳超えての初めての一人暮らしもなんだか自由で、楽しいみたいだ。(笑)その台所の音を聞きながら、この唄を思い出した。

唄の対象になっているのは恋人なのだが、父親が対象でも何らおかしくないような気がして、父親と二人だけのロマンチックなその夜は更(ふ)けて行ったのである。

※「食事をしようセレナーデ」・・・ピアノ弾き語り「YUKIO PIANO」4曲目です。ぜひ聴いてみませんか!?

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グールドの鼻唄

ピアニストのグールドについて私がどうのこうの言う資格はまったくないと思っているのだけど、単に1ファンとしてもう少し語りたい。

ほとんどどういう人なのか知らない。トシをとってからのあの背虫のような体形しかイメージになくて、ウエブで画像を検索してみると若い頃はずいぶん二枚目っぽい色男風な感じだ。

グールド演奏で最高に好きなところは、ピアノ演奏の後ろで必ずこの人鼻唄をうたっている。ウニャ、ウニャ。ウニャ、ウニャ。うねっている。ピアノを弾く前に唄っているのだよね。

上手い演奏家は世界中にいっぱいいる。私なんか足元にもおよばない。けどみんな演奏家なんだよな。音楽、特にピアノ演奏と数学は似ていると言う人が結構いるけれど、違うと思っている。音楽は理屈からは生まれない。

グールドはピアノ弾き語りシンガーなんだ。

ただ、そんじょそこらにいるピアノ弾き語りシンガーとは違う。バッハやベートーベンを弾きながらさりげなく唄っているけれど、これはそんな簡単にはできない。というか普通の常人には真似ることなどできっこない。その背景には半端じゃないピアノ運指のものすごい鍛錬が垣間見えて、そこにあるとてつもない厳しさが力のないウニャ、ウニャの鼻唄となって現れてくるところがなんだかとてもロマンチックなんだよな。

たぶん、私みたいななんの努力もしてこなかった人間がグールド音楽を語る資格なんかないのだろうけれど、1ファンとしてつい語ってしまった。グールドの鼻唄にはロマンを語るだけの価値はある。音楽配信