小さな唄とコロナウィルス

コロナウィルスが猛威(もうい)をふるっている。下手(へた)におちおち外出してられない。そんな時に限って家のガスが壊れたりして風呂に入れず近所の銭湯(せんとう)に行くはめになったりする。銭湯なんか行くと湯船の中にコロナウィルスがウジャウジャいそうでほとんど人はいないだろうと思ってたのだが、ところがどっこい結構人がいるではないか!おじさん達が気持ち良さげにお湯につかっている・・・(笑)、隣で体を洗っているおじさん二人の世間話に耳を傾けると、”オレなんかもう抗体ができちゃってるからヘッチャラだよ~。”と、また呑気(のんき)なことを言っている。(笑)

最近は有名人までかかっちゃっているので、街のいたるところでウィルスを持っている人たちもいっぱいいるのだろうな、その中の一人でも銭湯で体を洗えばみんなうつるはずだ、集団感染!クラスターだ~!と怯(おび)えるのだが、なぜ故(ゆえ)か銭湯がクラスターになったというニュースは聞かない。なぜだろうか?

ウィルス伝染の仕組みはよくわからないが、昨日の銭湯は怯えながらも気持ち良かった。(笑)久しぶりに広い空間でお風呂に入ると開放された気分になる。ただ気分は良かったがウィルスがうつっているようであれば仕方がないわけで、肝心(かんじん)の体調は本日も悪くない。(笑)しかしこのウィルスの特徴は5日後くらいに発症するらしいので油断してはいけない。注意深く自分の体調を見守らなければな。

このように私は意外にちゃんと世間の風に合わせようとする人間でもある。周りがどうなろうと知ったことじゃない!と、そういう素ぶりを見せることも多々あるのだが、最低限の一般常識は持っているつもりだ。エヘン!

テレビで伝えられているニュースなどではライブハウス等で大声で歌って唾(つば)を吐き出すのはかなり危険とのことだったので、先日のギター弾き語りライブではお店に気を使ったつもりはないにしろ、いい機会だと思い意識的に声をかなり小さくして唄ってみた。たぶん声を小さくすれば映(は)えるのではなかろうかと自分では以前から思っている曲があったりして、今回それを試してみたのである。

子供の頃から年末の紅白歌合戦を見るたびに、周りにいる家族が”ウ~ム、この歌手は声が出てない・・・。歌唱力が落ちたな・・・。”と評論家のようなコメントを発するのだが、自分としては声量があることや喉(のど)のコブシを回すこと(当然声を大きく出すとコブシも自然と回って来る)が歌の上手い、下手の判断基準にはなっていなくて、なんでこんなこと言うのだろうとずっと不思議に思っていた。紅白歌合戦を見なくなったのもこうした経験が原因になっている気がしないでもない。

また若い頃はエネルギーが有り余っているので、周りがそうだったように自分も負けじと大きな声でがなり立てもした。しかし心の底ではどうも違うような気がずっとしていて、自分の身の丈(たけ)で唄うのが一番いいのだ。その日の体調や環境もあるし、無理に声を張り上げても仕方がない。最近はもうそう思うようになっていたのだが、井の頭公園で唄うようになってまたまた声が段々大きくなって来たりもしている。(笑)マイクもなく外で唄って誰も振り向いてくれなければ当然、声も大きくなるってものだ。(笑)

ただ井の頭公園では仕方が無いにしても他の屋内の音響があるところなんかでは、こんなに大きな声で唄わなくてもいいのにと内心思っている曲も何曲かあって、密閉空間では唾(つば)をなるべく出さないようにとのことなので、フルアコ弾き語りでライブバーではなるべく小さく唄ってみた次第なのである。

小さな声の「夜の海辺」

「夜の海辺」(アルバム”cocolo“8曲目)と「キミの笑顔」(アルバム”太陽”5曲目)という曲で、どちらもラテン調のリズムになっている。CDに入っているバンド形態の完成形アレンジでも曲調に合わせて自然とボーカルも小さめに入っているのだが、更に意識的に小さく唄ってみた。すると自分とすれば肩の力が抜けて想像した以上にいい感じになったのではないかと思ってしまった。(笑)

試しに撮った動画をニコニコ動画に上げてみたのだが、はじめて見ず知らずの人からコメントがついたりして嬉しかったので、調子にのってユーチューブにも上げたのだが、しかしながら誰も見てくれない。(笑)誰も見てくれないのは今にはじまったことじゃないので余り気にはならないのだが、自分としては結構この路線で唄ってみるのもいいかもしれないと思っている。

昨年亡くなったボサノバギターの名手ジョアン・ジルベルトの追悼(ついとう)記事のひとつに彼の功績は世界中の歌が大声一辺倒になっていくのに抗(あらが)って、小さな声でも十分魅力的に聴こえる楽曲を創ったことだと書いてあった。なるほど、

小さな声の唄があってもいい。音楽配信

さざ波の音

自分の唄の中に何曲か海をテーマにした唄がある。海が好きだ。海をずっと見ていても飽きない。いや、海のさざ波を聞いていても飽きないと言った方がいいかもしれない。

別に海の近くで育ったわけでもないのだが、ひょんな縁(えん)から海辺の家を訪れることになる度(たび)にずっとその海辺を散歩して来る。やはり快晴の空の下の青い海辺が風に吹かれて一番気持ちいいのだが、空はいつも快晴なわけでもなく、どんよりとした曇り空の下の海や、激しい雨が打ち付けた濁(にご)った海、別の日には強風に吹かれて波が荒れ狂っていたりとか、その時の季候によって海は色々な表情を持っていて、人生と同じで予想がつかない姿が自分の心を惹き付けるのかもしれない。

また海風に向かって浮遊しているカモメやウミネコの鳴き声を聞いているとどこか気持ちが落ち着くのだ。こんな贅沢な時間はない。

いつかさざ波の聞こえる家に住みたい。もはやかなわぬ夢だと思っているが。

気づいたのはその地方によって海のさざ波の聞こえ方が違うということだ。実際はさざ波はさざ波でどこに行こうが同じだと思うのだが、やはりその土地土地(とちどち)で知り合った人との情の触れ合いのようなものが自分の心にさざ波の違いとして感じられるのだろう。さざ波はその時の自分の心を映し出す鏡のような気がする。

「夜の海辺」はそうした私が感じて来たさざ波の唄で、自分の中ではお気に入りの1曲だ。久しぶりに旧友と夜の海辺で落ち合い過去を温め合うが、現状の話になるとくい違いが知らぬ間に出てきて結局すれ違ったまま別れていく、さざ波の音だけがその浜辺に残されて聞こえてくるという設定になっている。

この海がどこの海だとは言わないが、私にとっては自分の青春の終わりの海だと思っていて、海とは先ほども述べたように人生と同じで予想もつかないものなのだ。いくら若い頃、仲が良かった友達であろうと、周りの違った環境の中に放り込まれると価値観も違ってくるだろうし、さっさとおいしい話の方に向かっていってしまって昔の情なんて忘れてしまったりするのが人間だとその時私は悟ったのだ。信頼していた友との別れ。心が崩れるような瞬間。しかし海はそんな人間のちっぽけな感傷など構ってくれない。さざ波の音だけが安らかに聞こえて来る。何事も無かったかのように。しかし、さりとて意外なところから助け舟を出してくれたりするのもまた人間なのだ。

快晴の下の海はおだやかでいつまでも眺めていられる。しかし、一旦牙(きば)を向くと先日の地震の大津波のように信じられないほどに人間世界を破壊してしまって、これが本当に同じ海なのか?と思うほどである。そして嵐が過ぎ去るとまた、まるでそんなことが夢であったかのように平穏になり白波の上に陽(ひ)の光がキラキラ輝いていたりなんかする。

不思議なものだ・・・。自分の人生はさざ波の中を散歩しているのかもしれない。音楽配信