朝顔 ただうたうボク

暑くなってきた。毛布がいらなくなり、気づくと掛布団(かけぶとん)もだんだん薄くなってきた。窓を開けると青空が見える。雀(すずめ)のさえずりが聞こえ、鉢に植えた柿の木から葉が生えている。洗濯物を乾かさなきゃ。

もう夏の準備を始めなければいけない。古い家なので日除(よ)けとして窓の外に毎年プランターから朝顔を屋根に向かって伸ばしている。ところが今年はまったく朝顔の双葉(ふたば)が出てこない。今のところ一茎だけだ。芽が吹いていい頃だと思うのだが、もう何年も同じところに朝顔を植えているので連作障害を起こすのかもしれない。近年はホームセンターで買ってきた種(たね)を蒔(ま)くのでなく、前の年に咲いた朝顔の種をわざわざとってそのまま同じ場所に植えてたりもする。

朝顔が好きだ。そして夏の朝に、朝顔に水をやるのが好きだ。

小学生の頃、夏休みの自由研究は朝顔の成長記録を毎年提出していた思い出がある。5年か6年生の時には功績が認められて全校生徒の前で校長先生から表彰状を受け取るまでになった。しかし、その頃はもう朝顔好きというのではなくて、周りに期待されて夏休み中朝顔を観察する半分大人の研究者になったような感じだった。親から無理やりやらされている宿題みたいで、もはや朝顔が好きだとか関係なく校長先生から表彰されることが目的になっているようだった。子供、私の都合ではなく、大人、親の都合で動かされている。当時は疑問に思ったものだ。

時は流れて、今自分も大人の立場に立っている。子供の、その夏休みの頃思った大人社会に組み入れられて四苦八苦(しくはっく)しているが、気持ちはやっぱり当時のままだ。校長先生に褒(ほ)められるより、夏の朝に朝顔に水をやって花を眺(なが)めながらのんびり涼んでいる方が自分は幸せなのだ。

今も自分は子供の頃となんにも変わっちゃいない。

「ただうたうボク」という自分の曲がある。その中の歌詞で”隣の庭には朝顔の花、屋根に伸びる茎、葉に水しずく、気づかぬうちに小雨降ったようで”と唄っている。私にとって夏は朝顔と夕立(ゆうだち)のイメージで、この”小雨”というのは雨が降っていたわけではなく、隣のおじさんが早朝、朝顔にジョウロで水をやっていたのを雨と勘違いした感じを敢えて歌詞に使っていたりする。

そしてその後は、夏の午後、雷(かみなり)が鳴りいつ終わることもない夕立の土砂降(どしゃぶ)りの中、雨宿りしていると、子供の頃も同じ事があったなと思い出し、体だけは大きくなったが気持ちはあの頃と何も変わってないと噛(か)みしめる話になっている。

雨上がりの夏の朝夕、青く晴れた大空がみえる。蛍(ほたる)の灯りだけが頼りの希望の見えない夜もいつか明ける。それまでは


過去、現在、未来へと続く、時を忘れ、ただうたうボクさ

唄をつくっている時だけはすべてを忘れられる。子供の頃、飽きるくらい朝顔を眺(なが)めていた頃のように。夏に向けて。

ただうたうボク ギター弾き語りライブ

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