音楽の魔法のからくり

ユーチューブに上げている自分の曲の中でタイトルに”魔法”とつく唄が2つばかりあって、数はたかだか知れてるのですが、なぜかこの2曲が他の曲に比べてアクセスが多くなっています。自分が想像するにこの”魔法”という言葉が検索されやすいのではなかろうかと思っていて、曲の中身とかは余り関係がないような気がします。

同じように”火の玉”という曲もアクセス数があったりして、”魔法”とか”火の玉”とか何か人間がつい興味を持ってしまいそうな、現実にあるのかないのかわからないこうした怪しげな現象をみなさん言葉で検索するのかもしれません。

ただ音楽と魔法は結構切っても切れない関係と言いましょうか、有名なミュージシャンがインタビューとかで自分の曲の制作過程を語る時、神が降りてきて、魔法がかかったようにメロディーが浮かんできたとかよく言ってたりして、実は私も同じような言い回しをするので、これはよろしくないと言いましょうか、できれば止(や)めたいのですがこういう風にしか言いようがないのです。

しかし客観的、第三者的に冷酷な目でみると、”なに格好つけた言い方してるんだよ!”と思ってしまうのが普通ではないでしょうか。そうです私は格好つけてるのです。(笑)申し訳ございません。

何年か前に教育テレビの障害者番組で自分のオリジナル曲をつくって唄っている女の子が出ていて”自分には音楽の魔法がかからない~♪ 音楽に魔法なんてないよ~♪ 音楽に魔法なんてない~♪”と、こんな感じで唄ってまして、結構衝撃を受けたといいましょうか、そうかこんな表現もありなんだと感心させられた思い出があります。彼女がデビューしてたのかどうなのかはわかりませんが、テレビでこんな唄、披露(ひろう)できるなら彼女には十分音楽の魔法がかかっていると思いました。

このように結構私は格好つけたもの言いをするので、とある晩ライブで、お医者さんと看護婦さんが組んでいるバンドと一緒になった夜があって、そのお医者さんは精神分析医らしく私の唄を聴いた後、どんな状況の時にそんな曲ができるのかと訊かれて、上記のように周りが絶望的な環境になった時とかに自然と頭にメロディーや歌詞が聞こえて来たりすると答えると、それは自己癒(いや)しになっているんだと言われたことがあります。

”銀座モード”という自分の曲があって、その曲の基は一番最初ピアノで思いついた唄なのですがその当時あまりに難しくていつかは弾きたいと思っていたのですがピアノで弾くことを諦めてギターの弾き語りで唄っていたところ、そのお医者さんに見抜かれてその曲はギターでやるのもいいけどピアノでやった方がもっと映(は)えるとアドバイスされたりもして、それ以降頑張ってピアノで弾けるようにもなって、あながちそのお医者さんが言うように自分の唄は自己癒(いや)しになっているのも間違っていないような気もします。

音楽に魔法があるかどうかはわかりませんが、メロディーが空から降りてくるのを待っていても仕方がありません。あるのかないのかわからない魔法を信じるより、せめて努力だけでも忘れず続けたいものです。魔法と言えば魔法なのでしょうし、自分の努力の結果とい言えば努力の結果なのですから。音楽配信

雨の音

今朝も雨だ。梅雨(つゆ)の時期、気づけば雨が降っている。今年は結構雨の日が多いような気がする。

雨の音にじっと耳を澄ませたことがあるだろうか?私は結構夜中に目が覚めた時トイレの中で雨が降っていると寝ぼけた頭にその音が聞こえて来たりする。ポツリ、、、ポツリ、パタン、ドンドン、、タン、、、

と、よく聞けばそれは小粒の水が様々な場所に落ちて散っていく打楽器の音なのだ。そして場所によってもその音は微妙に違っていて、トタン屋根に落ちるとパタン、パタンと高くはっきりした音、アスファルトの道路に落ちるとピシャ、ピシャ小さな音のように、聞き分けようとすると際限がない。

ただ解るのは、そうした雨の音というのは不規則で一定のリズムでは落ちてこない。ポツリ、、、そのあとワン、ツー、スリー、フォーのカウントをとろうとしても無駄で、どこか違うところでパタン、、、とか、ピタンとか、ピチャとか、予想だにできないところで音が鳴っていて、頭で計算のしようがない。

不規則な音なのに、雨の音を聞いているととても気持ちが落ち着く。なぜだろう?やはり雨粒が落ちる間(ま)を聞いているのかもしれない。ポツリ、、、とポツリ、、、の間(ま)の静けさを。

車や電車、飛行機まで何でもいいのだが、今の時代において人が使う道具が出す音というのは故障してない限りすべて規則正しい音を出している気がする。規則があるからこそ人間は安心してその道具を使うのだろうが、私自身はそうした音が余り好きではない。公園で鳥の鳴き声や海のさざ波の音を聞いていた方がいい。

唄もそうで、齢と共にだんだん規則が決まっている音楽に興味が無くなってきてしまった。かと言って不規則な唄なんて誰も聴いてくれないだろうしな。

雨が少し止んできた。雨の静けさの中で黙考する時間。不規則な雨音はよく聞くとやはりドラムだ。ピッチも決まっていない不規則なリズム。なぜか心が落ち着く。2019.梅雨。音楽配信

さざ波の音

自分の唄の中に何曲か海をテーマにした唄がある。海が好きだ。海をずっと見ていても飽きない。いや、海のさざ波を聞いていても飽きないと言った方がいいかもしれない。

別に海の近くで育ったわけでもないのだが、ひょんな縁(えん)から海辺の家を訪れることになる度(たび)にずっとその海辺を散歩して来る。やはり快晴の空の下の青い海辺が風に吹かれて一番気持ちいいのだが、空はいつも快晴なわけでもなく、どんよりとした曇り空の下の海や、激しい雨が打ち付けた濁(にご)った海、別の日には強風に吹かれて波が荒れ狂っていたりとか、その時の季候によって海は色々な表情を持っていて、人生と同じで予想がつかない姿が自分の心を惹き付けるのかもしれない。

また海風に向かって浮遊しているカモメやウミネコの鳴き声を聞いているとどこか気持ちが落ち着くのだ。こんな贅沢な時間はない。

いつかさざ波の聞こえる家に住みたい。もはやかなわぬ夢だと思っているが。

気づいたのはその地方によって海のさざ波の聞こえ方が違うということだ。実際はさざ波はさざ波でどこに行こうが同じだと思うのだが、やはりその土地土地(とちどち)で知り合った人との情の触れ合いのようなものが自分の心にさざ波の違いとして感じられるのだろう。さざ波はその時の自分の心を映し出す鏡のような気がする。

「夜の海辺」はそうした私が感じて来たさざ波の唄で、自分の中ではお気に入りの1曲だ。久しぶりに旧友と夜の海辺で落ち合い過去を温め合うが、現状の話になるとくい違いが知らぬ間に出てきて結局すれ違ったまま分かれていく、さざ波の音だけがその浜辺に残されて聞こえてくるという設定になっている。

この海がどこの海だとは言わないが、私にとっては自分の青春の終わりの海だと思っていて、海とは先ほども述べたように人生と同じで予想もつかないものなのだ。いくら若い頃、仲が良かった友達であろうと、周りの違った環境の中に放り込まれると価値観も違ってくるだろうし、さっさとおいしい話の方に向かっていってしまって昔の情なんて忘れてしまったりするのが人間だとその時私は悟ったのだ。信頼していた友との別れ。心が崩れるような瞬間。しかし海はそんな人間のちっぽけな感傷など構ってくれない。さざ波の音だけが安らかに聞こえて来る。何事も無かったかのように。しかし、さりとて意外なところから助け舟を出してくれたりするのもまた人間なのだ。

快晴の下の海はおだやかでいつまでも眺めていられる。しかし、一旦牙(きば)を向くと先日の地震の大津波のように信じられないほどに人間世界を破壊してしまって、これが本当に同じ海なのか?と思うほどである。そして嵐が過ぎ去るとまた、まるでそんなことが夢であったかのように平穏になり白波の上に陽(ひ)の光がキラキラ輝いていたりなんかする。

不思議なものだ・・・。自分の人生はさざ波の中を散歩しているのかもしれない。音楽配信

YUKIO真っ向(まっこう)音楽勝負

実はここ何年も音楽を買っていません。音楽そのものに興味はあるのですが、誰かの曲をダウンロードしたいという気にならないしCDも欲しいとは思うのですが、自分のCDを置いてくれるように大手のレコードチェーン店に営業をかけたことがあって全然取り合ってくれなくて腹が立って、それ以来二度とこのレコードチェーン店で買ってやるかと思ってしまって買ってないのです。(笑)

CDにこだわりは無いのですが、アナログレコードを聴くステレオを持っているわけでもなく結局CDになっちゃうのですよね。無料のspotifyとかストリーミングサービスを聴くこともたまにあるのですが、どうも本格的に音楽と対峙(たいじ)しようとするとやっぱり馴染めない。

街中で最近は無線のイヤホンをつけた若者をたくさん見かけますが、彼らはやはり音楽ストリーミングサービスで自分の好きな音楽を聴いているのでしょうか?APPLEやLINEの月額千円くらいの定額性のものであれば無料のspotifyに比べて音質もいいのでしょうけどどうもその気になれない。

そうすると昔買って何度も聴いた音楽ばかりをまた聴くことになっちゃって新鮮味がないと言おうか、どうも自分の音楽的な成長が止まってしまったような気がして不安になってたりもします。

正直、気に入った音楽はやっぱり欲しいのです。ストリーミングサービスといった形の無いものでは、スポーツなんかしてその間のBGMとして流しているのであれば事(こと)足りるのでしょうけど、私なんかのように音楽にのめり込んでいく人間にとっては数千曲なんでも聴けるのが便利なのでしょうがどうも物足りない。

好きになった彼女を自分のものにしたいのと同じで、好きになった作品はジャケットやデザインも含めて自分の元に置いておきたいというのが人間の本来あるべき姿のような気がして、少なくとも自分はそうなのでどうも定額制のストリーミングサービスは気が引けるのです。

車とかバイクでもいいのですが、興味がそんなに無ければ実用的に早く目的地に着くだけの手段でしかないのでシェアサービスで十分ですが、そうじゃなくてやっぱり何百万もするけれど所有したい思うわけで、音楽も気に入ったものは所有したくなるのが常ってものです。

自分の音楽作品4つをネット上で売っていて、ギターとピアノの弾き語り2つはストリーミングでも聴けるようになっているのですが、アレンジもこだわった全部一人で演奏したバンド形態の2つの作品はダウンロードして聴くしかできないようにしてあります。

自分の中では渾身(こんしん)の作品で、ほとんど買ってくれる人はいないのですがそれでいいと思っています。ストリーミングで聴いてもらおうとは思わない。ストリーミングサービスの何百万曲の中のひとつということじゃなく、やっぱり自分と言う人間を選んでもらいたいのです。自分の作品と対峙(たいじ)してもらいたいのです。そんなジョギングしながらお洒落にイヤホンつけて聴ける音楽じゃないのです。気に入ってもらえれば買ってもらいたいのです。

ダウンロード金額が1500円とか2000円になってますが、そんなの形だけで1万でも100億円でもいいと思っています。ネット上でこういう”買ってくれ、買ってくれ”という営業トークって一番嫌われるのでしょうけどいいのです。

音楽だけで勝負!それで散っていくのであれば、それはそれで仕方ないのです。音楽配信