お酒と音楽のルール YUKIOの場合

お酒をやめたいと思っているのだが、なかなかやめられない。前はずっとビールを飲んでいたのだが最近は焼酎(しょうちゅう)だ。ビールだとプリン体で関節が壊れるみたいで齢とともになんとなくそんな気がしてきて、プリン体ゼロのビールに替えたのだがお腹の調子が悪くなるので、焼酎にしている。

一時期、週末しか飲まないようにしていたのだが、いつの間にか毎晩、晩酌するようになってしまった。アル中だとは思ってなくて、健康診断の前とかは2週間くらいプッツリとお酒をやめられるのだ。

やめようと思えばいつでもやめられると思っているのが間違いなのかもしれない。現実にやめられてないので言い訳にしかならない。なんとかしたい・・・。しかし心の底からそう思ってないような気がする。(笑)

そんな意志薄弱(いしはくじゃく)の私ですが、お酒のルールでひとつだけこだわっていることがあって、それはお酒を飲んで音楽は絶対にやらないと心に決めている。

お酒を飲みながらライブをやる人達って結構いるのですが、自分はやらない。演奏が上手くないので酔っぱらうと指が動かなくなるということもあるのだが、酔いで自分を誤魔化した状態で唄をうたうのがなんだか嫌(いや)だ。

自分で苦労して創った唄は、自分で責任を持って唄いたい。仕事場でお酒を飲むようなものである。だから私はお酒を飲んでは唄わない。いくら儲からなくてもネ。(笑)音楽配信

朝顔 ただうたうボク

暑くなってきた。毛布がいらなくなり、気づくと掛布団(かけぶとん)もだんだん薄くなってきた。窓を開けると青空が見える。雀(すずめ)のさえずりが聞こえ、鉢に植えた柿の木から葉が生えている。洗濯物を乾かさなきゃ。

もう夏の準備を始めなければいけない。古い家なので日除(よ)けとして窓の外に毎年プランターから朝顔を屋根に向かって伸ばしている。ところが今年はまったく朝顔の双葉(ふたば)が出てこない。今のところ一茎だけだ。芽が吹いていい頃だと思うのだが、もう何年も同じところに朝顔を植えているので連作障害を起こすのかもしれない。近年はホームセンターで買ってきた種(たね)を蒔(ま)くのでなく、前の年に咲いた朝顔の種をわざわざとってそのまま同じ場所に植えてたりもする。

朝顔が好きだ。そして夏の朝に、朝顔に水をやるのが好きだ。

小学生の頃、夏休みの自由研究は朝顔の成長記録を毎年提出していた思い出がある。5年か6年生の時には功績が認められて全校生徒の前で校長先生から表彰状を受け取るまでになった。しかし、その頃はもう朝顔好きというのではなくて、周りに期待されて夏休み中朝顔を観察する半分大人の研究者になったような感じだった。親から無理やりやらされている宿題みたいで、もはや朝顔が好きだとか関係なく校長先生から表彰されることが目的になっているようだった。子供、私の都合ではなく、大人、親の都合で動かされている。当時は疑問に思ったものだ。

時は流れて、今自分も大人の立場に立っている。子供の、その夏休みの頃思った大人社会に組み入れられて四苦八苦(しくはっく)しているが、気持ちはやっぱり当時のままだ。校長先生に褒(ほ)められるより、夏の朝に朝顔に水をやって花を眺(なが)めながらのんびり涼んでいる方が自分は幸せなのだ。

今も自分は子供の頃となんにも変わっちゃいない。

「ただうたうボク」という自分の曲がある。その中の歌詞で”隣の庭には朝顔の花、屋根に伸びる茎、葉に水しずく、気づかぬうちに小雨降ったようで”と唄っている。私にとって夏は朝顔と夕立(ゆうだち)のイメージで、この”小雨”というのは雨が降っていたわけではなく、隣のおじさんが早朝、朝顔にジョウロで水をやっていたのを雨と勘違いした感じを敢えて歌詞に使っていたりする。

そしてその後は、夏の午後、雷(かみなり)が鳴りいつ終わることもない夕立の土砂降(どしゃぶ)りの中、雨宿りしていると、子供の頃も同じ事があったなと思い出し、体だけは大きくなったが気持ちはあの頃と何も変わってないと噛(か)みしめる話になっている。

雨上がりの夏の朝夕、青く晴れた大空がみえる。蛍(ほたる)の灯りだけが頼りの希望の見えない夜もいつか明ける。それまでは


過去、現在、未来へと続く、時を忘れ、ただうたうボクさ

唄をつくっている時だけはすべてを忘れられる。子供の頃、飽きるくらい朝顔を眺(なが)めていた頃のように。夏に向けて。

ただうたうボク ギター弾き語りライブ

音楽配信

YUKIO流ラブソング「わかってたまるか」

自分の唄はラブソングだと思っている。恋人への愛、家族への愛、生き物への愛、友達への愛、そして地球への愛。(笑)誰が何と言おうと愛が溢れてる。

愛のない生活は退屈だ。しかし一方で愛し、愛されないといけないので努力も怠ることはできない。生きるということは大変なのです。

私の唄の中にも「愛してる」というそのものズバリの曲がある一方で、「わかってたまるか」という全面否定の曲があったりもして今回はその「わかってたまるか」の紹介をしたいと思います。

「わかってたまるか」・・・自分で自分の唄をラブソングだと主張しておきながら、実は自分では唄はラブソングに限らず何を唄ってもいいと考えていて、”キミたちは満員電車に乗って死んでいけ。”とか”面白くねえ、面白くねえ、世の中どうかしちまってる!”とか過激な歌詞をつけて唄ってたりもします。

世の中のヒット曲のほとんどが恋人へのラブソングなのでしょうけど、そこが若い頃からどうもついて行けなくて洋楽の方を聴いてしまったのかもしれません。洋楽の方だと結構、政治的な唄とかもあったりしてもっと表現が自由だったような気がします。

世の中きれいごとばかりで動いてないというか、表面上はネット上でもそうなんですけどみなさん格好のいいことばかり言うのですが、実際は激烈な競争社会であって本音(ほんね)は自分の肝っ玉の中に隠してる。そんな本音の唄がもっとあっていいと思っています。

場末のライブハウスで唄っていると、そうしたヒット曲にはならないかもしれないけれど自分の本音で唄っている人をたまに見かけたりして面白いなと思うことがあるのですが、その人たちが売れたという話は聞いたことがなく、やっぱり本音を出すと音楽の世界だけでなくどの世界でも損をするのだと容易に想像できます。

にもかかわらず、私は「わかってたまるか」を唄っちゃうんですよね。歌詞は


”わかってたまるか、お前なんかに!わかってたまるか、絶対に!”

だけです。昔っからこの曲をやるとドン引きされて会場がシーンとなるか、それとも最初ポカンとした顔されてその後おもしろい!斬新な曲だ!と称賛されるかのどちらかだったような気がします。反応が両極端なんです。  

その原因は自分ではこの曲の音楽的な構造にあると思っています。また音楽的な話になって申し訳ありませんが、


この曲には実はコード(和音)がありません。ノーコードなのです。

簡単なベースラインしかないんです。それでも十分に曲として成立してると思っています。なぜ人はメロディーにコード(和音)をつけるのでしょうか?コード(和音)をつけなくていいじゃないですか。必要がなければ要らないでしょう?そういうことです。

最後にこの「わかってたまるか」という唄は他人への全否定というものではなく、否定するからこその愛だと思っています。


私にとっては形を変えたラブソングなのです。音楽配信

夢の設計図

自分の音楽を説明するには楽譜が必要なのだろうか?前回自分の曲を説明するのに苦労したのでフトこう思ってしまった。

もう最近は他人(ひと)と一緒に演奏するということがない。すべては自分の頭の中にあるのだが、今まで他人(ひと)と一緒にやって自分が思ったような演奏ができた試しがない。原因は私が楽譜を書いて渡さないというものでは無いと思う。

一番の理由は、たぶんお金が発生していろいろな利害関係がからまった仕事として他人(ひと)が私の音楽に取り組んでくれなかったということだ。要は儲からないので、わがままに自分の好きなようにやりたいだけで気の合うところはそれでいいのだろうが、理解し合えない部分は適当にごまかして演奏されてしまうということだった。趣味の世界であればそれは当然なのだが、まったく儲からないにしても私は趣味で音楽をやって来たつもりは毛頭ないので、多少スケール音の譜面を渡したりなんかもして具体的にこうしてくれと言うのだがお金がからんでないとやはり適当なのだ。そのうちなんでお前の言うことを聞かなきゃいけないんだという態度になってきてお互い気まずくなるというパターンだった。

お金と譜面を渡してクラシック音楽のように譜面通り演奏するというのも手だが、そこまでやってくれる人間関係も無かった。みんなが知っている世間にもう認知された有名な曲であれば、譜面を見ながら楽しくできるのかもしれない。しかしどこの馬の骨ともわからない人間にああでもないこうでもないと指図されればどのような人間でも好い気はしない。結局はすべてを一人でやることになった。

一人でやっていると譜面は要らない。自分の頭の中を整理するだけだ。ところが前回ブログのように聴いてくれる人に対して自分の音楽を説明しようとすると多少コード進行がどうのこうのとかスケール音がどうとか入れてしまわなければいけない。聴いている他人(ひと)にとってはそんなことどうでもいいことなのだろうが、曲がどのような骨格でできていてどういう風に肉づけされているのかをお知らせしないといけない。他人(ひと)は音をただ聴いていると思っているだけだが、実はその背後にある曲をつくった人の考え方を聴いているのだから。

他人(ひと)に自分の気持ちを伝えたいために自分は唄をうたっている。この世に生まれてきた幸せや、不条理を。譜面を伝えたいわけではない。ただ伝えるためには手段が必要なのだ。たぶん私の場合はそれは音楽の設計図のようなもののような気がする。このブログを含め小さな夢の設計図だ。音楽配信