自分にとっての新曲

イライラしている。どこに電話をかけてもやっていないか、年始の営業で忙しそうで出てくれない。昨年の末から頭に描いていたスケジュール通りにまったく進まなくて困ってしまっている。今年いったいどうなっちゃうのだろう?心配ばかりしていても気が重たくなるばかりなので、このブログに向かってしまった。

最近は音楽の聴き方が変わった。もう何年も音楽を買うということが無くなってしまって、昔のものを聴くはめになっている。自分の若い頃、聴いていたミュージックテープが捨てずに残っていて、その後のCDと合わせてミュージシャン別に整理がしてあって、何年か前はずっとマイルス・デイヴィスを、昨年は忌野清志郎を聴いていた。最近はスティービー・ワンダーを聴いている。

ストリーミングサービスのspotifyでも聴くことは聴いていて、黒人ブルースのプレイリストを作って聴いたりしていたのだが、なんだか飽きた。20代後半になる姪っ子がピカピカの新車の中でADOの”新時代の~♪”とか歌っている曲をspotifyでガンガンに流しながら一緒に口ずさんでいたので、若い子は今こういう曲が好きなんだ?と思い、”新時代のおろかもの~♪”というフレーズが思いつき、いつか公開してやろうとたくらんでいたのだが、この”新時代の~♪”という曲が昨年一番ヒットした曲らしく、紅白歌合戦にも出ていたようで、真似(まね)た曲を作ってもね~?と思い、どうしよう?破棄しようかな?と思案中なのであった。笑

最近の新聞で読んだところ、音楽ストリーミングサービスは全盛なのだが、聴かれている曲の内訳を見ると最近の曲が3割で、残りの7割は過去の曲らしく、やはり時間に淘汰(とうた)されずにしぶとく残ってきた曲は強いみたいだ。もちろん、すでに知っている曲だからこそ安心してストリーミングサービスで聴くという面もあるのだろう。

こうした曲を相手に、自分のギター弾き語りとピアノ弾き語りの名もなき曲は勝負を挑んでいる。3~4年配信し続けていて、もう誰も相手にしてくれないよと言われてしまいそうだが、止(や)める気は更々(さらさら)なく、世界中でこの曲を聴いていない人たちはまだ何十億もいる、この人たちにとっては自分の曲はまだ新曲なんだ!と思ってしまうのだった。

間隔をあけて、新曲を作って宣伝し商売をするというのは、もう若者向けだけでいいような気がする。若者は格好良さを求めて流行歌を求めるのかもしれないが、自分のようなジャンル区別なく、ただの音楽好きの人間にとってみれば、昔の曲も今の曲も、はじめて聴く曲は新曲なのである。毎週土曜日にコーヒーを飲みに行くクラシック喫茶でかかる何百年前に創られたモーツァルトやベートーベンの曲もはじめて聴く曲は何曲もある。その曲たちはすべて自分にとって新曲なのだ。新鮮で古い曲で片づけられない魅力がある。ADOの”新時代の~♪”という曲と同じ地平線上にあったりする。

本当にレコード会社かミュージシャン側が新作を出すと聞いて買ったのは、たぶんもう20年以上前になると思う。プリンスがプリンスという名前では無くて、なにか記号のようなマークでやっていた頃だ。それ以降はもう自分にとってみれば、古かろうが新しかろうが、はじめて聴く曲はジャンル関係なく、なんでも新曲なのであった。笑

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いまどきのライバーなYUKIO

ギター、ピアノ弾き語りのバンド化作業が終わってしまい時間ができてしまった。作品を3つに分けたのだが、これをどう形にしようか?と考えてたりもするのだが、その先にミニアルバム「青森」も形にしていない。ダウンロードだけは始めたのだが、どうせ誰も聴いてくれないだろうという予測も成り立つので、自分とすれば、そんな音楽配信というものだけでなく形として自分の手元に残しておきたいのだ。

いままではCDにして来たのだが、別にCDにこだわっているわけではなく本当はビニール盤のレコードとかカセットテープでもいいのだが、料金が高価で手が出せないのでCDにしているだけなのである。

最初、ギター、ピアノ弾き語り「YUKIO」、「YUKIO PIANO」は業者に頼んだわけでなくCD-Rを盤面印刷して、歌詞カードを入れて、紙ジャケットも自分でひどいものだがデザインしたり、知人を頼って制作してもらったりもした。バンド形態にした「COCOLO」からはCD-Rではなく、業者にデータを渡して、完全に音楽CDとして制作している。

大勢のお客様が買ってくれるという当てもないのに、こうしたことをやってきたのは、ひとえに自分の命の次に大切な作品を形にしておきたかったからだ。ダウンロードやストリーミングといったものは聴く側からすれば便利なものなのだろうが、やる側からすれば何も残らないと言おうか、やはり自分が生きた証(あかし)を形として、目に見える物として残しておけば、何か安堵感を覚えるのだ。

だから「青森」という作品も、ミニアルバムなのだが、CDかなにかの形にしたいと思っている。しかし、自分の頭の中にはこの音楽を創るという脳ミソとは別に、お金の算段をするまた自分の脳ミソがあって、ただ何も考えずに、当てもなくCDを作っても、金の垂れ流しになる、、、なにか違ったアイデアが無いものか?と日々考えるのである。いままでと同じ轍(てつ)を踏(ふ)んではいけない、、、と。ただ、何の形であれ形には残したいという思いがあり、どうしようか?と悩むのであった。

この「青森」の次の10何曲入りの作品も出来上がっている。1曲目の「ひまわり」という曲だけをとりあえずストリーミングで音楽配信してみたが、全曲を無料(ただ)で聴いてもらって何かが変わるのか?それであれば、誰にも聴いてもらえなくても何か形として自分の下(もと)に残しておきたいという気もするのである。正直、ヒットチャートなんてものはもう何十年も聴いてはいないし、家ではもう最近あまり音楽なんて、気に入ったものだけしか聴いてない。その中にいままで創ってきた自分の作品もあったりして、自分で楽しむだけでも十分なような気もする。なぜ、わざわざ金をかけてまで他人(ひと)に聴いてもらおうとするのか?

こう思う自分の心もあるのだが、一方で他人(ひと)に認められてなんぼのものじゃ!音楽の道を志した時、自己満足で終わらせてはいけない、趣味ではやらないと決心したではないか!という気持ちもあって、もともとは誰にも相手にされない音楽を、自分だけは信じてここまでやって来たではないか、最後まで道などなく、荒野しかないのかもしれないが、それでも筋を通せ!と、叱咤激励(しったげきれい)する自分の姿もあったりする。

とりあえず、いろいろ悩んだりもするのだが、最近は時間が空いたので、それを利用してネットでライブ配信を始めてみた。(笑)年甲斐もなく、いまどきのライバーなYUKIOなのである。(笑)前にこのブログでコメントを残してくれた人からライブ配信してみればとアドバイスを受けたのだが、作品のミックス・マスタリングの作業に時間をとられて1~2回やってそれっきりになってしまっていたものをまた再開した。

ニコニコ生放送というサイトで”小さな声のライブ”というタイトル名で夕方くらいに配信している。 ”小さな声のライブ” とは家が狭くて外に音が漏(も)れちゃうので、大きな声が出せず、ボソボソ唄うだけのライブになってしまうからだ。(笑)先週は結構、毎日のように配信した。

声が小さいので、お持ちのスマホやパソコンのボリュームを上げてね!と説明文も入れてあるのだが、まあ、あまり聴いてくれる人もいないし、自分もそんなに期待しているわけでもない。当然か。(笑)ただ、何となく、この”小さな声”というのは気に入っていて、コロナ前のライブをやっていた時にはいつもこんな感じで、部屋でボソボソ、ギターを爪(つま)弾きながら練習していた。まあ、このライブ配信は練習がてらという意味もある。(笑)本当は、曲を創る時はもっと声が小さくなって、コタツに足を突っ込み、あぐらをかいて、上手い歌詞が思い浮かべば、ノートに書きとって、ポロロ~ン♪とギターを弾くのだ。家族にも聴かれはしないかと、窓も扉もキッチリ閉めてね。(笑)この姿は誰にも見せられない。一人だけの時間、空間。他人(ひと)の気配がするだけで、もうすべてが台無しになるのである。(笑)

小さな声のライブ” の方は、背景も、白、黒、緑の布(ぬの)を上から吊るして、日ごとに変えたり、専用の照明もつけていたりもして、他人(ひと)から目線も一応は気にしながら唄っていたりする。ただし髪がボサボサ。(笑)このセッティングが面倒くさいのだが、頑張ってやるようにしている。

このライブ配信には上に書いたように、そんなに期待はしていないのだが、ニコニコ生放送ではこのライブ動画が何週間かウエブ上で残されるので、それを利用してnoteというサイトに、その日のライブ曲のセットリストをspotifyでつくって、感想と合わせて貼り付けて公開するようにした。

クリックするとページにとんでいけます。

こんな感じで、このブログとはちょっと違った形で、くだけた感じで文章を書いてたりなんかする。(笑)ライブは小さい声なので、大きな声で聴きたい場合はspotifyのリストで聴いて下さいとかなんとか主張したりするのだ。(笑)

また”小さな声のライブ” をする度(たび)に、 spotify にリストを作るのだが、そのリストに鳥の名前をつけるようにしている。上のページでは、ツグミだし、他にシジュウカラだとか、ヒヨドリだとか、適当に名前をつけてアップしている。なぜこんな鳥の鳴き声をつけたのかといえば、自分は鳥のさえずりを聞くのが好きで、鳥の鳴き声といっても注意してよく聞けば、千差万別おなじさえずりなんかはなくて、まちまちなのだ。

自分の曲も、曲順を変えるだけで全然聞こえ方が鳥の種類のように違ってくると思い、同じ曲群でも、その連なりが違えば、違う響きが聞こえる。こういう楽しみ方があっていいんじゃないかと思ったのである。今日はツグミのようにさえずったし、明日はシジュウカラのようにさえずるぞ!と感じると、なんだか毎日おなじ曲を唄うにしても全然気持ちが違ってくるといおうか、楽しくなってくるのだ。

一応、”YUKIO 小さな声のライブ セットリスト”として、いままでのセットリストはnoteのマガジンとしてまとめられているので、興味のある方がいるかはわかりませんが、のぞいてみませんか?

クリックするとページにとんでいけます。

noteにはこの ”小さな声のライブ セットリスト” だけではなくて、いくつか自分が書いて来た文章をまとめたマガジンが無料で読めたりもする。”木曜のともだち”から”最後のともだち”まで8本の私のかつての友達との思い出話をまとめたものとか、こちらを読んで”ともだちがほしいよ ver.2”の動画を見ていただければ、更に楽しいかもしれない。

ただしこの動画をニコニコ動画に上げたら、「目がラリってて、危ない人~?」みたいなコメントが入っていたりもした。(笑)世の中がおかしいのか、自分がおかしいのか?よくわからない。(笑)おしまい。

音楽配信中!

ともだちがほしいよ

突然ですが、今回「ともだちがほしいよ」という曲をリリースすることになりました。「月」というアルバム作品の中にも入っている曲で、そちらは「友達が欲しいよ」と曲名に漢字が入っていたりなんかします。なぜそうしたか?その理由なんかも含めて今回は語って行こうかなと思います。

1年前に「月」というアルバム作品とその中に入っている「藤の花」という1曲をリリースしたのですが、「月」はダウンロードしかできない形になっていて、こちらは私自身が音楽配信業者にお金を払って配信しています。「藤の花」の方は配信業者の方が1年に1回、私みたいな独立系ミュージシャンを配信に誘い込み、囲い込むために、1曲だけに限り無料サービスをやるので、それを利用してspotifyやAPPLE MUSIC等で無料で聴けるストリーミングも含めて配信したのですが、1年間の期限付きとなっていまして、「藤の花」は今月1月をもって配信は終了するのです。その代わりと言っては何ですが、今回新しく「ともだちがほしいよ」という曲を今後1年間ストリーミング配信しようと企(たくら)んだのでした。

「藤の花」の方は、ストリーミングでは聴けなくなりますが、YouTube上の動画では全編聴けますので、ぜひそちらを見ていただいて、気に入ったら、そちらからダウンロードいかがなものでしょうか?

さて、その作品「月」第2弾ストリーミング、シングルカットとも言うべき「ともだちがほしいよ」という曲をなぜ今回、数多(あまた)ある私の曲の中から選んだのかと言いますと、、、そんなに理由は無いのですが、まず「藤の花」の時もそうだったのですが、楽曲が音楽的にそんなに難しく無いこと、そして歌詞がシンプルなことなどが挙げられます。

特に”友達が欲しいよ〜”と唄う歌詞が、”50も過ぎた親父(オヤジ)が吐(は)く台詞(セリフ)か!?”と何だか世間から白い目で見られそうな、あるいはそう言われることは無いにしろ、腹の中で蔑(さげす)まされるだろうなと容易に想像されたので、よし!では、今回この曲で行こう!と思ったのでした。(笑)

やはり、曲には違和感がないといけない。

私の曲には、結構”わかってたまるか〜!”とか、”キミたちは満員電車に乗って死んでいけばいい、、、”とか、奇をてらったつもりは無いにしろ、大手のレコード会社だけでなく世間一般からも疎(うと)まれそうな歌詞がついてる唄が少なくない。(笑)”友達が欲しいよ〜”と唄うのも、その延長線上にあるのです。

何だか世の中の当たり前だと思う常識や風潮が、若い頃から嫌でしょうがない。”友達が欲しいよ〜”とか10代の青春時代の若者ではあるまいし、大の大人(おとな)がそんな女々(めめ)しいこというものじゃ無い!今時(いまどき)の小学生だってそんなこと言わない!とお咎(とが)めを受けてしまいそうですが、そんな指摘するのは連(つる)んで団体の中でぬくぬくと生きてる人間が言う話であって、厳しい現実において大人になっても友達が欲しいものだと思ってます。

この唄は30代の前半の頃、周りはみんな会社勤めになり、お金を稼ぐ以外に人生の価値は無いかのごとく世の中の大半は動いていることに気づかされ、自分もその大きな流れに背くことなどできないと悟った時に創った曲で、当時は曲が余り面白く無いので没(ボツ)にしてしまっていたのでした。

歌詞の中には”今じゃ新聞、経済面から読み始める自分がいる・・・”と唄ったりもしているのですが、実際はそんなこともなく(笑)、子供の頃そうであったようにまずテレビ欄をチラッとチェックして、スポーツ面を結構、隅(すみ)から隅まで読んで、それから経済面を読むのでした。ただその当時、経済面を読むようになった自分がいてと言うか、経済記事に何が書いてあるのか段々わかって来て、お金儲けと言おうか世の中の仕組みに興味を持ち始めた自分のその姿が、自身でとても不思議で新鮮に感じたので、こうした歌詞を思いついたのかもしれません。

大人は打算で動きます。子供の頃はそうした大人の打算を”汚(きたな)い”や”ズルイ”と言った言葉で表現しますが、生活がかかっているのです。金を稼げない自分の子供を責任を持ってその”汚い”大人にしないといけないのです。金を稼ぐには、嫌な人間とも顔をつき合わせなければいけません。

そんな時には、大人はたぶんその相手に”友達になろうよ!”と言うに違いありません。名刺を交換して”友達になろうよ!”と言って、友達になったふりをするのです。”お前なんか嫌いだ〜!”と言って敵を作るよりも、腹の中はどう思っているのかわかりませんが、表面上は友達になっておいた方がお互いメリットがあって作業がはかどるのです。その方が手っ取り早いのです。ですので”友達が欲しいよ!”と大人は言ってはいけないのです。

そこまでわかっていて何でお前はそんな”友達が欲しいよ〜”とか青くさい、今時の打算的な小学生だって言わないようなことを唄うのかと問われると、そう唄う方が自分は幸(しあわ)せになれると思うからに他なりません。(笑)

だって嘘はつきたくないもん。

肝心なことは誰だって嘘はつきたくないですよね。今回あえて作品「月」8曲目に入っている「友達が欲しいよ」を平仮名(ひらがな)の「ともだちがほしいよ」に変えたのもこうした考え方からなのでした。まだ子供心をどこかに引きずっている自分がいるのです。たぶん子供の頃から友達がいなかったのでしょうね。(笑)

せっかく音楽配信するというので、動画も「藤の花」に続いて作ってみました。ただ部屋の中での撮影となると上半身だけのものになってしまって、前回と変わらないものになるので衣装を変えてみました。チャンチャンコ着て、腹巻き巻いて唄ってます。(笑)へ、へ、へ。オリジナルの日本語の唄をうたっているからな。ギターとベースも弾いているぞ〜。右肩の下着がズリ落ちているのはご愛嬌(あいきょう)。(笑)ぜひ見てやってください。

「ともだちがほしいよ」音楽配信中  作品「月」音楽配信中

書き忘れてましたが、この曲の音楽的なこともついでに述べておこうと思います。音楽的には何も新しいことはやってません。(笑)ですので最初、若い頃この曲を没(ボツ)にしていました。けど、自分の心の中にはずっとこの曲は残っていて、たぶんビートルズの初期の頃の曲に近いのかなと勝手に思ったりもしてます。世界のビートルズと自分の曲をとうとう重ねちゃいました。(笑)

自分の音楽はロックだという割には今までビートルズについて何も語ってきませんでしたが、ビートルズは原体験で聴いているわけではなく後追いなので何とも言いづらいと言いましょうか、一応は一通り聴いてまして結構好きなのですが、周りにいた熱狂的なファンと思われる人達とは多少距離を置いてきたような気がしないでもありません。(笑)CDも何枚か持ってまして、やはり初期の頃のシンプルなビートルズの曲が大好きで、「ラブミードゥー」とか「抱きしめたい」とか、ジョンレノンのシャウトものと言いますか、そうした曲が好きなのです。この「ともだちがほしいよ」という曲も自分の声の音域の結構ギリギリのところで唄ってたりなんかするものですから、自分でも和製ジョンレノンになった感じで、まんざらでもない顔をして唄っていたのだろうな、その時の自分の顔を鏡で見てみたかったとも思うのでした。(笑)

そしてビートルズと言えば、私にとってはあまりお金の臭いがしないバンドと言おうか、大人に利用されずに自分たち自身で考え、この大地を踏みしめたバンドというイメージがあります。日本にも次から次へと色々な人気バンドやタレントさんが出てくるのですが、みんなその背後に芸能事務所があって、お金儲けの大人の都合で動いている感じが見え隠れして、自分たちで物を考えないと言おうか、考えさせられないように洗脳されるのか、よくわかりませんが、見ていて退屈(たいくつ)なのです。エレキギターを持って格好よく弾いているのですが、全然ロックに見えない、、、。演歌歌手と何が違うのだ???洒落(しゃれ)たコード進行でキーボード弾いて喝采を集めても、後ろで大人が手を引いているだけのような気がして、どうもお金の臭いが漂って来るのを嗅(か)ぎつけてしまうのは私だけでしょうか?現実のビートルズもアイドルとしてそんな感じだったのでしょうけど、不思議と余りそうしたイメージが湧いてこないのですよね。

ジョンレノンとポールマッカートニーは、ビートルズというバンドの曲作りの仕事仲間なのでしょうけど、同時に”ともだち”だったのかもしれません。お金儲けと割り切れば世界一儲けられるバンド、ビートルズを解散させる必要はどこにも無かったのですから。そんなことより相手の音楽性が許せなくなったりしたのでしょうけど、それも”ともだち”だったからこそなのでしょうね。二人が”友達になろうよ!”と名刺交換して、効率優先の割り切った大人の関係だったならば、まず解散もなかっただろうし、それより、第一ビートルズがこれほどまで有名なバンドになることも無かったような気がします。

自分も若い頃、何度も気の合うバンド仲間を求めて、その”ともだち”を探したのですが、未(いま)だに出会えません。ただ、こればっかりは自分で努力して何かできるものでもありません。仲良かった友達と音楽リハーサルスタジオに行って、自分の音楽をグチャグチャにされてしまって深く傷ついたり、自分より音楽知識の高い人間に、こうした方が良いと言われ指示に従い、結局は自分の意図しない曲になったりして、こうじゃないだろ!と思ったことも何度もあったりして(笑)、歳をとった今、それが現実なのだと思います。それでも自分はまだ不思議とこう思うのです。ジョンとポール、2人のように

ともだちがほしいよ

と。

最後に音楽をやっている人向けにこの簡単な曲の構造を語りますと、この曲のコード進行はFとFの平行調のDmが中心になっているのですが、曲の最後そのどちらかのコードに行くところをDに行って終わってます。たぶんこれは調が変わっているのだと思いますが、こうした進行もたぶんビートルズの中期くらいの曲にあったような気がします。このDに行くところを見つけることができなかったならば、この曲は没(ボツ)にしていました。そうした点もこの曲がビートルズに影響を受けたものなのかなと自分では思っています。

がんばって、曲を創って、唄って、録音して、営業して、解説までしちゃいました。(笑)

ぜひ、聴いてください。音楽配信中