音楽の雑味

さて、昨日は自己流のミックス・マスタリング術を語ってみたが、今回はもう少し具体的に踏み込んだ話をしてみよう。ミックス・マスタリングもたぶん歌と同じで人それぞれやり方が違っていると思う。正解なんてないのだが、、、どうしても他の作品と比べようとしてしまったりする。

レファレンス・トラックと言ってミックス・マスタリングをやっていると自分自身何をやっているのかわからなくなることがしょっちゅうあって、他の人が作った模範にすべきトラック(曲)を決めてそれを模倣するのだ。私の場合、音圧(曲の音の大きさ)加減がどれくらいあればいいのか最初全然わからなかったので今まで買って来たCDの中のできるだけ新しいトラックを参考にしたり(それでも20年以上前の曲だったりするのだが、、、)、楽器屋の店員さんからアドバイスを受けて参照したいCDを買ってみたりもした。ただし音圧加減のレベルを知りたかっただけで、そのレファレンストラックの全体の曲の雰囲気とかを真似したいとは思わなかった。曲の構造が余りにも違い過ぎてなんだか参考にできないのである。模倣したい曲がないのだ。(笑)最近は割り切って音圧のサジ加減を調整するためだけでレファレンストラックを聴いていたりなんかする。

次に、いまだにいつも悩むのがトラックにクオンタイズをかけるのか?かけないのか?という話だ。クオンタイズとは何かと言うと、録音された生演奏データのバラツキのタイミングを揃(そろ)える機能(当然、人間の生演奏では本当に寸分の狂いも無くタイミングを合わせることなどできないの)で、最近の流行歌などはもはやすべてにクオンタイズ加工されている気がするのだが、自分はなんだか好きになれないのである。

cocolo」という作品を創った時、実は鍵盤の音をすべてピッタリ頭を揃えたのだが余りに無機質で、次に入れたギター演奏と唄はすべて何の加工もしないようにした。そうすることによって上手くバランスもとれたと思っている。生演奏できない打ち込みをしたドラム、ベーストラックではヒューマナイズドというわざとタイミングを人間ぽくずらす機能も結構使っていたりして、やはり自分の中では理想はクオンタイズをかけずに何の加工もしないのが一番自然でいいような気がするのだ。

それで次の「太陽」という作品はリズム以外はすべて生演奏そのままを使ったのだった。ただ何となく生演奏だらけだと情緒的で、最近の世間の音楽がそんな風になっていないので何だか時代に乗り遅れているような気がしないでもないのである。

最近のクオンタイズされた音源はとても無機質で、スマホなどから密閉されたヘッドホンを使って音楽を楽しむ人が増えたせいか、クリアな感じの音質が好まれるのかもしれない。。。雑音は一切入れないようにすることがミックス・マスタリングの基本であるとどの教科書にも書いてあるのだが、この点も自分は馴染めない。(笑)耳をよく澄ますと、鍵盤は間違った音を指で押さない限り楽曲とは関係のない音は出てこないのだが、ギターなどは弾く前にフレットに触るだけでも色々な音が小さ~く出ていて、様々な雑音が鳴っているのである。この雑音が生演奏の魅力の正体だと思っていて、雑音を取り除いた音楽なんて雑音が入り混じった現実生活を送っている人間にとってありえないので、最初は耳触りがいいのかもしれないが段々飽きて来るのではなかろうかと思っていたりもする。譜面を追って演奏しても実は譜面だけの音しか出ていないわけではなく、人の耳が認識できないだけで本当に雑多の音が鳴っているのである。

それで「太陽」という作品の中では、表現はもっと自由だ~!!そうした雑音も含まれた音楽もあっていいと考えたので、ギターを弾いていない時のシールドの”ジーッ”という音も敢えて入れたのだった。鍵盤上で多少隣の間違えた音が小さく出ていたりしても、「cocolo」ではすべてそうした音はカットしたのだが、「太陽」では敢えてそうした雑音も入れた。その雑音も含めて自分の頭の中では曲のイメージが完成されていて、雑音を見逃したわけではないのだ。雑音を一切いれないという考え方にそれが正解であるとどうも賛同できないのである。(笑)いろいろな録音の仕方があっていいじゃないか!音楽はもっと自由だ!人間はもっと自由だ!と。。。この点については自分だけじゃなく他の人の意見も訊いてみたい気がする。

時代に遅れちゃいけないと現代版のクリアな音ばかり聴いている時に、昔、録音された曲をたまに聴くと音は悪いのだがなんだかホッとすると言おうか心が温まると言おうかそんな気分になったことはないでしょうか?レコードやテープが流行っているのもそんな感覚があるからなんだと思うのですが、、、。

雑味があるからこそ音楽は楽しいのです。(笑)

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