緊急事態宣言下での司馬さんの言葉

緊急事態宣言真っただ中の都下なのだが、街に出てみると意外にたくさん人が出ていると言おうか・・・商店街の中には肉を求めて行列ができていたりなんかして普段と変わらない光景が繰り広げられていた。これで大丈夫なのかな?と思うのだが、来週あたり位からは今日都知事が指定職種に休業要請するようなので店を閉めたりするところもかなり出て来るのだろう。

今朝のトップニュースは世界恐慌以来の景気の落ち込みということだった。これから世の中どうなって行くのだろう?心配しても始まらないが、現実生活に本当に影響が出て来るのはこれからなんだろうな。

こんな時は本を読むに限る!と言いたいところだが、最近はほとんどお酒ばかり飲んでいて読みかけの文庫本に挟(はさ)まれた栞(しおり)の位置はずっと同じままだ。お正月もそうなのだが、大体自分は家にお酒があればある分だけ飲もうとしてしまう。外出自粛ということなので、食料は家族に任せ、なぜか自分はビールなのだがお酒のまとめ買いだけをしてくる。(笑)しかし結局は数日の内に飲み干してしまってかえって平時より格段に飲む量が増えてしまった。(笑)

これでは如何(いかん)!と思い、ここ数日は多少知恵を絞ってビールをグラスに注(そそ)がずに、缶のまま口をつけるようにしたところ飲む本数が減った。グラスに注ぐと泡が出てしまいその分苦(にが)みが消えてゴクゴクと風呂上りに飲む量が増えてしまうのだが、缶のままだと苦みがまだグッと凝縮されていて余り一口で飲む量が進まないのだ。この禁酒方法ビール好きの人には参考にして頂きたい。(笑)

せっかく本の話になったので久しぶりに自分の読書体験をお話したいと思う。今回は時代小説を色々読んだ楽しい思い出を語りたい。昔は駅の売店の新聞棚の上によく文庫本の棚が吊るされていて、そこによく置いてあったのは”赤川次郎”とか”松本清張”、”向田邦子”といった有名な作家さんたちの本だと大概(たいがい)決っていた。

自分は子供の頃はこういう大家といわれそうな作家の本を嫌っていて、”村上春樹”とか”吉本ばなな”とか当時新進気鋭の作家の小説をこれがお洒落なんだといわんばかりの感じで読んでいたものだった。(笑)「文豪」という言葉そのものが余り好きでなく、そうした臭いを漂わせていた有名な作家の小説を意味なく嫌っていた。

それを覆(くつがえ)したのが司馬さんだった。司馬遼太郎(しばりょうたろう)。私が語らずともみなさんの方がよく知っているかもしれないが一応説明すると、幕末から戦後までの右肩上がりの時代だった小説を多数書いてきた昭和の大作家で、NHKの大河ドラマでも何度も取り上げられ、代表作に「竜馬がゆく」とか「坂の上の雲」とかあったりする。

お正月に家族の田舎に行くと何もすることがなく、近くの海を眺めに行くか部屋に籠(こも)って本を読まざるをえない状況になるので、東京駅の売店で田舎で司馬さんの本を試しに読んでみるかと買ったのが司馬さんの文章との出会いの始まりだった。

子供の頃のイメージとすれば上で述べたように、文豪の人たちの中の一人という感じが強かったのだが、読みだすと止まらなくなってしまった。特に「竜馬がゆく」は新聞の連載小説だったらしく長編なのだが、中だるみもなく終わりまで一気に読めた。坂本龍馬にほとんど興味がなかったのだが、この小説のおかげで幕末から明治維新にかけて起こった歴史上の事件や人物になんだかとても詳しくなってしまい(笑)、10年くらい前に大河ドラマでやった「龍馬伝」を見ながら隣で無理やりこのドラマを見ることに付き合わされた家族に、”武市半平太は人を殺める指令をいっぱい出していたから、最後は切腹させられたのだよ~。”とか”お竜(龍馬の妻)はここで風呂上りに素っ裸になって龍馬に幕府の取り締まりが来たのを知らせたのだ~!”と有名な寺田屋事件とかを実は司馬さんからの受け売りの言葉なのに、まるで歴史家のようにもの知り顔で解説したのだった。(笑)

司馬さんが坂本龍馬を有名にした張本人で、この小説がないと坂本龍馬は未だに歴史の闇に消されていたと言っても過言ではないのだと思う。自分の子供の頃は歴史の教科書に坂本龍馬の名前は無かったか、西郷隆盛のように太字で記されず細字だったような気がする。今じゃ聞く所によると堂々と教科書に載っているらしい。

このように司馬さんは他の人とはちょっと違った歴史のとらえ方をする。この人はただの昭和の文豪ではないと最初に思ったのは、小説ではなく司馬さんが日本全国を旅歩いてその地方地方の歴史を紐(ひも)解く「街道をゆく」というエッセイの中で、”日本人は弥生時代にお米を大量生産するという稲作システムを開発した。そのおかげで楽をすることを覚えてしまった。”と書いていたことだった。この文章を読んだとき我ながらハッとした。楽することを覚えてしまったと言われても・・・しかし、、、確かにそれ以前は日本人は個々の狩猟生活を送っていたはずで、私がそれまで常識と思っていた私も含めて日本人は先祖代々脈々と和を持って良しとする農耕民族であるという先入観をひっくり返されてしまったのだった。米を周りのみんなと協調して真面目につくり、神様に感謝して美味しく食べようという一般の日本人が誰もが思っている自分たちの日本人観をこの人、元々信じちゃいないんだ。。。

日本人は農耕民族じゃないのかよ~!子供の頃からそう教えられて来たじゃないか~。日本人の主食は米じゃないのかよ~!食卓の上にごはんがないと駄目だろ~。白いごはんと一緒にオカズを食べるのが一番美味いだろうよ~!それが日本人じゃないのか~。ごはんは日本人の心のふるさとだろう~!ところが司馬さんはそんな日本人の大半が思っている声を”お前らそんな甘いこと云ってるから駄目なんだ。”と一蹴してみせたのだ。

俺たちは農耕民族じゃない!

こう思ってしまい一遍(いっぺん)に司馬さんが好きになってしまったのである。(笑)

サッカーのワールドカップ日本代表が世界で戦う時、”個でなくチームの和”をいつの代表監督も強調するのだが違っていると思う。試合を決めるのは絶対にゴール決めてやる!という強靭な精神を持ったマラドーナのような個なのだ。日本の特長はそんな気の合った友達同士のぬるい団体性になんか無く、”武士は食わねど高楊枝(たかようじ)”という格言があるように、いくら腹が減ってもその素振りすら見せずにやせ我慢する侍(さむらい)精神であるはずなのに。(笑)

今、日本いや世界が戦後最大の危機に直面してるという。何年か前にどこかの新聞の書評で司馬さんが今の時代生きていたらどんな事を言っただろうか?と書いてあったが、世間が混沌(こんとん)としている今こそそんな司馬さんの歴史観を聞いてみたい。なんて言うのだろうな?

世界は楽することに慣れきってしまっていた。

と言ったりしてネ。(笑)音楽配信中 聴いてみませんか!?

世界はひとつ