安眠(あんみん)ソング

この歳(とし)になると、もう最近は他人(ひと)の音楽をほとんど聴かなくなってきていることを告白しよう。(笑)コロナ前からずっとCDを買っていないし、サブスクのストリーミングサイトで聴くはずもなし。その割には自分の音楽を売ることに執着(しゅうちゃく)ばかりしている。(笑)

自分の音楽情報源というのは、1週間に1回、土曜日午後、音楽喫茶に行ってクラシックを聴くことくらいだ。(笑)これでよく自分の音楽をやっているな。(笑)先月は健康診断があるため、夜お酒を抜いたので風呂上りによくジミヘンを聴いた。もうあまり歌ものとかも聴きたいとは思わなくなってきているのだが、ジミヘンだけはなぜかこの歳(とし)になってもいまだに飽きない。それどころか歳と共に、ジミヘンばかり聴いてしまう自分がいるのであった。(笑)

このノイジーなギタリストの曲と優美なクラシック音楽のシンフォニーとは、なにか共通項があるかと言えば何もなく、(笑)興味があるから聴いているだけの話だ。

今、流行りの音楽に興味がないことはないのだが、疲れてしまって・・・、人生長く生きていると、今流行っているものも、4、5年すればあっという間に忘れられちゃって、次の流行りにみんな飛び移っていくのを何度も目のあたりにしているので、なんだか馬鹿馬鹿しく感じてしまうのだった。

では他人(ひと)の音楽は聴かないのだが、音楽が聴きたいと思った時、最近何を聴いているかと言えば実は自分の曲なのであった。馬鹿だねオレも。(笑)いつも聴いているわけではないのだが、忘れた頃に自分の過去の作品を聴いたりして時間を過ごしたりしている。

そうすると自分の曲にある特長があることに最近は気づき始めた。自分の曲を自身で褒(ほ)めたりするのも馬鹿なので、なるべく客観的に言うのだが、私の曲には眠気(ねむけ)作用がある。(笑)なんだか聴いていると、しらない間(あいだ)に眠りこけてしまうのだ。(笑)

ピアノ室に行って練習する時は録音してきたものを、家に帰って必ず聴くのだが、その時も結構知らないうちに寝てしまうことはままあって、それはいつも昼ご飯を食べたあとに聴くので、原因はご飯にあるものだと思っていた。しかし、最近はご飯を食べていない時でも自分の曲を聴くと、なんだか知らないあいだに寝ちゃっているのである。(笑)

気づいた時には曲が終わっている。(笑)歳(とし)を喰ったからかな?(笑)

原因はメロディーの繰り返しが多いということなのかもしれないが、それはどの曲だって繰り返しをするのであって、繰り返すことが音楽とも言えるのである。繰り返しのない音楽は音楽でない。(笑)

ただ曲が単調なので退屈になって寝てしまうというのとは、ちょっと違っているような気がして、自分の曲の特長なのかなとも最近は思ったりもしている。(笑)

こんな私のオリジナルソング聴いてみませんか?けっこう、気持ち良く熟睡(じゅくすい)できますよ!1曲だけだと短いので、作品を通して聴くことをお勧(すす)めします。

奥さん。安らかな眠りをお届けいたしますよ。

今回は枕メーカーの宣伝みたいな文章になっちゃいました。(笑)

オリジナルソング「感謝」歪み系の曲です。(笑)

音楽配信やっております。気に入ったらダウンロードいかがなものでしょう?作品を通して聴いていただくのが一番のお勧(すす)めです。CD販売もしています。

音楽の血

緊急事態宣言の1ヶ月の延長が決まった今年のGW、みなさんお家(うち)で何をなされてるのでしょうか?最近の報道を見てるとどうやらこの1、2ヶ月外出を控えればコロナも収束(しゅうそく)していくというわけではなさそうで、今後何年も付き合っていかなければならないことになりそうな論調に変わってきた。

ソーシャルディスタンス(社会的距離)を守って学校や会社に行く世界になって行くのだろうか?そんなこと言ってると集会なんてできないので、スポーツとかコンサートとか政治の街頭演説だってできないではないか?会社だって行く必要が無いのであればどんどん独立していく奴も出て来ると思う。誰もが想像できないような末恐ろしい世の中になって行くのかもしれない。

そんなことをぼんやり想像してみたが、、、考えたところで今現在、何か自分の行動が当面変わるわけでもなく自分は自分の音楽の道を行くだけである。今回は自分がこれまで聴いていいなと思ったり、影響を受けてきたミュージシャン(音楽家)のそのいいと感じた共通点について語ってみようと思う。音楽は主観だと思うのであくまで私の独断で語るものだ。

若い頃から色々な音楽を聴いて来た。ロックからブラックミュージックまで。歳と共にそれがジャズやラテン音楽になり、とうとう現代音楽に向かい、最近はもはやクラシック喫茶でバッハ、モーツァルトやベートーベンといった昔のドイツ音楽ばかり聴く生活になってしまった。原点回帰してるとも言える。(笑)

技巧的なものは全く別々のジャンルに当てはまるものでまちまちなのだが、自分の心の中ではこれらの音楽はすべて統一されているのである。それは音楽というのは最終的には血を感じさせないといけないということだ。

たぶん世の中には音楽を上手く奏(かな)でる人間は世界中にたくさんいると思う。しかし上手いだけや格好いいだけでは自分の心は動かない、、、そこにその人の血を感じさせないと駄目なのだ。血を感じさせると言おうか、その音楽の背後にどうしても血が漂って来てしまうと表現した方が正しいのかもしれない。

抽象的で曖昧な言い方ではなくて、ではその血と言うのは一体何かと言えば、具体的に言えばその人の歴史と地理でなければいけない。私にとっていい音楽とは、その人の親がどういう親であったり、地球上のどこら辺の街で育ったり、どのような社会環境であったりしたかをリアルに感じさせるものなのだ。

黒人のブルースにはその背後にあった奴隷制といった歴史を抜きには語れないし、アントニオ・カルロス・ジョビン(ボサノバの創始者)やピアソラ(アルゼンチンタンゴの神様)の音楽は私のような北半球で育った人間にしてみれば重力が逆になったようなリズムに感じられてしまい、地理的に南半球でしか生まれないような音楽に思えてしまう。そこに時空を超えて自分の知らない世界が広がっているような気がしてそうした音楽に夢中になってしまうのである。だから日本人がただ単に海の向こうのクラシックやジャズを演奏してみても、それは上手いのはよく分かるのだが、何を伝えたいのかどうもその意義がわからないのだ。

知り合いのご子息がお医者さんの卵らしく、まさかこの時期感染症の専門医になるのか?あるいは医者になったところでイタリアでは150人以上の医者が死んでますよ!と先日夜連絡をとる機会があり、酔っぱらった勢いで脅しのメールを送ったのだが、”外科医になります。”と素っ気ない返事が返ってきた。(笑)

このイタリア人医師が150人以上亡くなってしまった話とかを聞くと私の中では音楽の血を感じてしまうのだった。イタリアの人たちと言えばオペラを歌ったり、サッカーに熱狂したりなんかしてもの凄く感情的で情にもろいそんなイメージがあったりする。医療の現場でそんな情をはさむ余地などないのだろうが、ニュースに出て来るイタリアの医師は診療が終わった後に”医療崩壊が起きている。助けが必要だ。”とガサツにマスクを取り外して訴えていたりしたが、日本ではこんな適当なマスクの取り方などは多分ありえないだろう。

日本はしっかり情報が共有され管理されていて、医師も感染しているがイタリアほどの数でもない。しかし今日の新聞では東京ではコロナ陽性の可能性がある急患を受け入れる病院がなく患者は4時間以上たらい回しにされた事例が頻発していると書いてあった。感染症のことを知れば知るほどうかつに患者を診ると危険なのはもはや素人の自分でもわかる。自分がもし医師であるなら疑いのある患者を診たくないというのが誰もの本音だろう。

しかし、田舎にたった一人しかいないお医者さんが、夜中に門を叩かれ”ウチの爺(じい)さんが咳(せき)が止まらないんだ、苦しがっていて、コロナかもしれないがどうか診てやって下さい~!!”と涙目で懇願(こんがん)されたとすれば、そのお医者さんは門を開くのだろうか?しかもその爺さんというのはいつもピザが余ったらお裾(すそ)分けしてくれて世間話をしたよく知っているピッコロ爺さんだったならば・・・。

平時であれば躊躇(ちゅうちょ)なく誰でも診察に応じるだろう。しかし今回は感染する可能性はかなり高そうだ・・・、どうしよう?決断しなければいけない。アナタならどうしますか?自分であれば・・・自分であれば・・・多分できない気がする。しかし、

イタリア人の医師は診るはずである。医師である前に情が通った一人の人間であるからだ。それが今回語りたかった音楽の血でもある。音楽配信中