悔いなきように

2枚組にしたいと考えている作品集の制作が、今、だんだん佳境(かきょう)をむかえ出している。家で考えた打ち込みのリズムを入れたノートパソコンをリュックの中に入れて背負い、そのパソコンにつなぐスピーカー2つを入れた箱を前カゴに入れて、自転車に乗ってピアノ室に行くのである。ピアノ室でそのノートパソコンとスピーカーをつなぎ、音を出して、その音に合わせる形で生ピアノを弾きながら唄うのであった。

結構大変なのだが、曲の構造を最終的に仕上げにかかる時にはどうしてもこの作業が必要になって来る。わざわざスピーカーまで持って行かなくても、パソコンから音を出せばいいではないかと思われるかもしれないが、パソコンだけだとボリュームを最高に上げても音が小さくて、生ピアノとの音量バランスがつり合わないので、わざわざこの作業をするために持ち運びできる小さいスピーカーを以前買ったのだった。

家には安い電子ピアノも置いてあって、家でそうした作業をすることもできるのだが、やはり生ピアノの音で確認しないと自分は駄目(だめ)なのである。電子ピアノで確認して行くと、どうしても頭でっかちになってしまうと言おうか、危ない。見落としがたくさん出て来てしまったことが何度もあって、電子ピアノで曲をまとめるということはやらない。

音楽はやはり頭で考えるよりも体で感じとるものだと、つくづく思うのだ。頭の中の設計図は大切なのだが、設計図よりももっと大切なのが感じとる力(ちから)と言おうか、閃(ひらめ)きと言おうか、うまく言えないが、音楽にはそう言う人間が人間であるべき原点があるような気がして、なぜ人は歌を歌うのだろう?という素朴な疑問に答えることができる奴(やつ)がいないように、自分にとっては、音楽とは理屈ではなくて説明不能な生きている内にこぼれ落ちる摩訶不思議(まかふしぎ)な現象なのである。

何をわけのわからない文章を書いているのだろう、オレは?爆笑

そう、自分の心の中に何年も沈み込んでいた得体の知れないものが徐々に形になり、そろそろ芽吹くかもしれないという段階に今は入って来ている状態になり、自分自身で何かこうウキウキしていると言おうか、これからこの曲たちがどのような形になって行き完成を見るのだろうか?予想を裏切る展開なんかもあったりして、一番大変な作業なのだが、一番楽しくもあって、これだから曲作りは止められない。

当初、この2枚組にしようと思っていた作品群は、自分の人生のおまけと言おうか、歳(とし)をとってからの作品群だったので、若い頃の自分の唄に比べてパワーが落ちると言おうか、冒険不足と言おうか、これまでの作品群でもうやりつくした感があって、今回の作品群は未完成のまま死んで行ってもいいかなと思っていたのだが、佳境に入るにつれ、心が燃え盛ってきて、もっと現実の中で他にやるべきことがあるにもかかわらず、それをやらずに、このこちらの作品群に向き合ってしまう自分の姿が、やはり自分は売れない歌手なのだろうなと思ってしまうのであった。しかも誰にも振り向いてもらえないと言う。笑

しかしながら、いいのである。これも自分の運命だと思い、そんなことよりもこの2枚組の作品の結末がどのようになるのか、それが知りたい。まだもう少し時間はかかるとは思うが、悔いの無いようにと思っている。

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音楽の血

緊急事態宣言の1ヶ月の延長が決まった今年のGW、みなさんお家(うち)で何をなされてるのでしょうか?最近の報道を見てるとどうやらこの1、2ヶ月外出を控えればコロナも収束(しゅうそく)していくというわけではなさそうで、今後何年も付き合っていかなければならないことになりそうな論調に変わってきた。

ソーシャルディスタンス(社会的距離)を守って学校や会社に行く世界になって行くのだろうか?そんなこと言ってると集会なんてできないので、スポーツとかコンサートとか政治の街頭演説だってできないではないか?会社だって行く必要が無いのであればどんどん独立していく奴も出て来ると思う。誰もが想像できないような末恐ろしい世の中になって行くのかもしれない。

そんなことをぼんやり想像してみたが、、、考えたところで今現在、何か自分の行動が当面変わるわけでもなく自分は自分の音楽の道を行くだけである。今回は自分がこれまで聴いていいなと思ったり、影響を受けてきたミュージシャン(音楽家)のそのいいと感じた共通点について語ってみようと思う。音楽は主観だと思うのであくまで私の独断で語るものだ。

若い頃から色々な音楽を聴いて来た。ロックからブラックミュージックまで。歳と共にそれがジャズやラテン音楽になり、とうとう現代音楽に向かい、最近はもはやクラシック喫茶でバッハ、モーツァルトやベートーベンといった昔のドイツ音楽ばかり聴く生活になってしまった。原点回帰してるとも言える。(笑)

技巧的なものは全く別々のジャンルに当てはまるものでまちまちなのだが、自分の心の中ではこれらの音楽はすべて統一されているのである。それは音楽というのは最終的には血を感じさせないといけないということだ。

たぶん世の中には音楽を上手く奏(かな)でる人間は世界中にたくさんいると思う。しかし上手いだけや格好いいだけでは自分の心は動かない、、、そこにその人の血を感じさせないと駄目なのだ。血を感じさせると言おうか、その音楽の背後にどうしても血が漂って来てしまうと表現した方が正しいのかもしれない。

抽象的で曖昧な言い方ではなくて、ではその血と言うのは一体何かと言えば、具体的に言えばその人の歴史と地理でなければいけない。私にとっていい音楽とは、その人の親がどういう親であったり、地球上のどこら辺の街で育ったり、どのような社会環境であったりしたかをリアルに感じさせるものなのだ。

黒人のブルースにはその背後にあった奴隷制といった歴史を抜きには語れないし、アントニオ・カルロス・ジョビン(ボサノバの創始者)やピアソラ(アルゼンチンタンゴの神様)の音楽は私のような北半球で育った人間にしてみれば重力が逆になったようなリズムに感じられてしまい、地理的に南半球でしか生まれないような音楽に思えてしまう。そこに時空を超えて自分の知らない世界が広がっているような気がしてそうした音楽に夢中になってしまうのである。だから日本人がただ単に海の向こうのクラシックやジャズを演奏してみても、それは上手いのはよく分かるのだが、何を伝えたいのかどうもその意義がわからないのだ。

知り合いのご子息がお医者さんの卵らしく、まさかこの時期感染症の専門医になるのか?あるいは医者になったところでイタリアでは150人以上の医者が死んでますよ!と先日夜連絡をとる機会があり、酔っぱらった勢いで脅しのメールを送ったのだが、”外科医になります。”と素っ気ない返事が返ってきた。(笑)

このイタリア人医師が150人以上亡くなってしまった話とかを聞くと私の中では音楽の血を感じてしまうのだった。イタリアの人たちと言えばオペラを歌ったり、サッカーに熱狂したりなんかしてもの凄く感情的で情にもろいそんなイメージがあったりする。医療の現場でそんな情をはさむ余地などないのだろうが、ニュースに出て来るイタリアの医師は診療が終わった後に”医療崩壊が起きている。助けが必要だ。”とガサツにマスクを取り外して訴えていたりしたが、日本ではこんな適当なマスクの取り方などは多分ありえないだろう。

日本はしっかり情報が共有され管理されていて、医師も感染しているがイタリアほどの数でもない。しかし今日の新聞では東京ではコロナ陽性の可能性がある急患を受け入れる病院がなく患者は4時間以上たらい回しにされた事例が頻発していると書いてあった。感染症のことを知れば知るほどうかつに患者を診ると危険なのはもはや素人の自分でもわかる。自分がもし医師であるなら疑いのある患者を診たくないというのが誰もの本音だろう。

しかし、田舎にたった一人しかいないお医者さんが、夜中に門を叩かれ”ウチの爺(じい)さんが咳(せき)が止まらないんだ、苦しがっていて、コロナかもしれないがどうか診てやって下さい~!!”と涙目で懇願(こんがん)されたとすれば、そのお医者さんは門を開くのだろうか?しかもその爺さんというのはいつもピザが余ったらお裾(すそ)分けしてくれて世間話をしたよく知っているピッコロ爺さんだったならば・・・。

平時であれば躊躇(ちゅうちょ)なく誰でも診察に応じるだろう。しかし今回は感染する可能性はかなり高そうだ・・・、どうしよう?決断しなければいけない。アナタならどうしますか?自分であれば・・・自分であれば・・・多分できない気がする。しかし、

イタリア人の医師は診るはずである。医師である前に情が通った一人の人間であるからだ。それが今回語りたかった音楽の血でもある。音楽配信中

答えの探し方 YUKIO音楽の場合

自分のつくった曲の中に”答え”という唄がある。若い頃”答え”なんか無いとずっと思っていた。周りの人間も”答え”を求めてもいなかったし、捜しても無駄だといった感じだった。ところがある日ガラッとその考え方が変わってしまった。

空が晴れ渡ったとても気持ちのいい朝で、寝不足で疲れてもいたのだがフト何かがわかったのだ。”答え”はある。それも自分の中に。もともと自分の心の中に眠っているだけで、それを確めたいだけに人は生きているのではなかろうか?捜すから”答え”はないのであって、確めればいいだけのはずなのである。”答え”は人それぞれ各人の心の中にある。他人(ひと)と触れ合うことによって自分の”答え”を確めようとしているだけなのだ。

そう思ってしまった。あまりに観念的で上手く説明できないが今もその考え方に変わりはない。その時に閃(ひらめ)いたメロディーに乗せて今でもアコースティックギターで唄っている。本当はフルアコかセミアコで弾いた方がいいような気がするのだがやったことがない。今度やってみるとするか。

”答え”は捜すから無いのである。自分の心の中を確(たしか)めに行けばいいのだ。

さあ、探しに行こう。きっと見つかるはずだ。音楽配信