不思議な読書

秋だ。読書の季節だ。と喜ぶのはまだ早い。歳(とし)と共に目がおかしくなってきている。寝る前に本を読もうとしても、ものの30分くらいで目がぼやけて来て、メガネをかければいいのだろうが持っていない。作ろうという気も今のところはない。普段の生活にはほとんど影響がないので、この状態で行けるところまで行きたいと思っている。

何を読書しようかと最近はいつも本屋で読みたい本を探すのだが、手に取るだけで買う気がしない。なんだか有名な作家さんのお話とかあまり興味がなくなっている。芥川賞とかノーベル賞とかどうでもいいのだ。そんな立身出世の物語より、これからはなにかもっと身近に感じられる読書体験がしたいなと思うのだが、肝心のそうした本が見当たらないのだ。

それで家の棚の下の片隅(かたすみ)に眠っていた「禅語百選(ぜんごひゃくせん)」という本を開いた。

「禅(ぜん)」である。(笑)

禅については知っている人も、まったく知らない人もまちまちだと思うのだが、自分が知っている範囲では、坐禅(ざぜん)して瞑想(めいそう)する日本独特のきびしい修行の仏教で、学校では確か道元(どうげん)がなんとか宗(しゅう)を開いたのが始まりだと教えられたように記憶しているが、その「禅語百選」を読み始めると、禅の始まりはもっと古くて達磨(だるま)さんが開祖(かいそ)とのこと、そのあと古代中国で広がり、日本に伝わり広まったようで、自分の禅に対する知識は全然間違っていたことを知った。歴史の試験の点数が悪かったわけだ。(笑)

なんで、そんな禅の本を読みはしないのに手元に持っていたのかというところから今回の話をしなければいけない。

父親が終活(しゅうかつ・・・自分の人生の終わりを悟って身の回りの整理をすること)していて、周りが本だらけで、古本屋にも来てもらい買い取ってもらったりもしたのだが、それでも収拾(しゅうしゅう)がつかないので、子供の自分に興味があるのならば好きな本を持っていけと言われたのだった。父親は本好きで、昔の部屋は無数の本に囲まれていて、今で言う書斎(しょさい)と言われてもおかしくないような雰囲気があった。引っ越した時に相当捨てたらしいが、それでもまだ膨大に残っていて、子供の頃は何を読んでいるのかさっぱりわからなかったが、はじめて父親からそう言われて、あらためてその本の山を眺めてみると、余り興味があるものがないような気がした。正直古いと思った。

ただ、”古本屋に愛書を引き取られることは、自分の身体(からだ)の一部分を引きちぎられるようで辛(つら)い。それであれば肉親の誰かに貰(もら)ってもらった方が全然いい。好きなだけ持って行っていいぞ。”と言ってくる父親の顔がなんだかとても寂しそうで、ここで”正直興味ない。要(い)らない。”なんて言う言葉をかけることはできなかった。

何冊かもらって、アマゾンか何かに出品してみるのもいいかとも軽く思ったりして、書斎の本棚をあらためてながめたのだった。その中に禅(ぜん)の本が何冊か混じり込んでいたのである。

なぜ禅(ぜん)に興味を持ったかと言うと、元々は一度でいいから坐禅(ざぜん)を組んでみたかった。それとアップルの創業者の今は亡きスティーブ・ジョブズが禅(ぜん)の思想に影響を受けたりして、マックコンピューターやアイフォン のあのシンプルで印象的なデザインを生み出したと聞いたことがあるからだ。それくらいの知識しかなかったのだが、ちょっと昔に夏目漱石の「門(もん)」と言う小説を読んで、友達の女房を横取りし逃避行(とうひこう)して、なんとか落ち着いた先に、またその友達が偶然やって来ると言う話を聞き、顔を合わせることになりはしないかと焦(あせ)る主人公が、悟(さと)りを開きたいと鎌倉の禅寺(ぜんでら)に何週間か修行に入るという物語なのだが、その禅寺の描写(びょうしゃ)がとても綺麗に書かれていて、あらためて禅(ぜん)の思想とは一体どのようなものなのだろう?もう少し深く知ってみたいと言う思いもあり、その書棚から何冊かの禅(ぜん)の関連本を抜き取ったのであった。

「門」の中では、主人公はその禅寺の中で見よう見まねで写経(しゃきょう)なんかもやったりするのだが、結局悟(さと)りを開けず山を降りる形になっている。その主人公がその禅寺で偉いお坊さんとの禅問答(ぜんもんどう)する場面とかは、おどろおどろしい感じで描かれていたりして、禅(ぜん)とはなんだかとても怖い思想なのかもしれない。ただ表層に現れて来るのはシンプルな言葉や、アップルのデザインのようなたたずまい。。。不思議な感覚をその時持ったのであった。

いざ「禅語百選(ぜんごひゃくせん)」を開くと、いきなり第1章のタイトルが空(くう)-不立文字(ふりゅうもんじ)と来た。禅は文字を立てないらしい。よく読むと文字が不要というわけではなく、師弟(してい)の命のふれあいが禅(ぜん)の本質であって、文字や言語には限界があり、それだけでは十分に表現できないものがあるということの例えの言葉とのこと。

むずかしいな。。。

しかし、確かに自分も音楽を創っていて、歌詞のみだけで表現できないものをメロディーやリズムに乗せて、その全体を自分の表現だと思っていたりもするので、物事(ものごと)を文字や言葉だけでは言い表せられないという感覚は理解できる。

この不立文字(ふりゅうもんじ)の章から、禅師(ぜんじ-”ぜんじ”と読むらしい。”ぜんし”と読んでいた。笑)と思われるお坊さんの作者が選んだ100の漢文調の禅語が並べられ、ひらがなを交えた日本語で解説されていく。

現在で60語過ぎたくらいのページを読んでいるのだが、目がかすれるのと難しいのとで、なかなか読み進んでいかない。たぶん不立文字(ふりゅうもんじ)という言葉も、いずれは忘れて行くに違いないとも思っているのだが(笑)、今回はいままでの読書とはまるっきり違う体験をしていると自分では思っている。

それは、この「禅語百選(ぜんごひゃくせん)」の内容もそうなのだが、文字の横には赤鉛筆(えんぴつ)やボールペンで若い頃の父親がつけたであろう線が所々(ところどころ)に引いてあるのだ。

”鳥も花もそれなりに自己が存在する体験を語っているからです。 ・・・” に赤線が引いてある。”人間がそれらにふれると、自然に詩なり、歌なり、絵ができるのです。・・・”赤が多少薄くなっていたりもするが、しっかり線が引いてあるのがわかる。”人間が製作するのではなく・・・”この部分はかなり太く赤線を引いている、”花や鳥によって人間の中から、花や鳥が引き出されるのです。・・・”また薄い線にもどっていたりする。

このような感じで、この「禅語百選(ぜんごひゃくせん)」のページのいたるところに赤線の棒が引っぱられてあるのだ。

若い頃の父親が生きている!

こう思ってしまい。禅語の内容もそうなのだが、その禅語に赤線を引く若き日の父親の姿が脳裏(のうり)に浮かぶのである。この語句のどこに父親は感銘を受けたのだろうか?とか、このむずかしい文字のどこに教えを乞(こ)おうとしていたのか?とか、秋の夜長に自分の書斎に閉じこもり、何を考えながらこうした本を読んでいたのか想像してしまうのだ。

そう言えば自分が幼い頃、父親がある日、丸坊主(まるぼうず)にして来た日があった。驚いて家族全員で父親に何があったのかと問いただすと、なんだか最近は人生にだらけて、その気分を律するためにやった!とかなんとか素(そ)っ気(け)なく応えていたような記憶がある。

後ろのページに、古くてもう色が変わっている栞(しおり)が挟まれているのを見ると、文苑堂47.12.19となっている。文苑堂とは子供の頃よく連れていってもらった高岡の本屋さんだ。47.12.19は昭和47年12月19日なのだろう。

昭和47年と言えば・・・、自分が8才の時。小学校2年生、低学年の頃だ。確か、父親が丸坊主にしてきた日もその頃だったような気がする。

あの頃の父親か・・・

まだ出世街道をばく進している頃の、まだそんなに挫折を知らない頃の父親の姿がそこにあって、その後の家族崩壊なんて思ってもみなかった自信満々の青年の父親像が思い出されるのだ。

真空不空(しんくうふくう)・・・真空(しんくう)は空(くう)ならず

「存在するということは空(くう)である」

に赤線が引いてある。父親は何を想ってこの言葉に線を引いたのだろうか?なんだか父親の若い頃が乗り移った感じで、二人でこの本を読んでいるような気になるのであった。

今の自分は、もうこの頃の父親の年齢をはるかに超えた年齢で、青年だった父親がこの世で何を見て来たか感じとることができる。まさか青年時代の父親に、この歳(とし)になって出会えるとも思わなかった。この本のおかげである。しかし現実の父親は、自分がいくら歳をとろうといまだに子ども扱いで、「お前の歳(とし)の頃は、自分はああだった、こうだった。」と親の権威を壊さず、弱気の顔を一切みせようとしない。いつまでたっても子供は子供なのだ。このギャップ(へだたり)が、なんだかどう解釈していいのか上手く言い表せないのだが、生まれて来て良かった!育ててくれてありがとう!と思ってしまうのであった。

浅はかにこの本をアマゾンで売ろうと軽く考えていたのだが、出品しようにも、こんないたるところに赤線が引いてあれば買ってくれる人は誰もいないだろう。商品になりそうもない本なのだが、自分にとっては値段のつけようが無いくらいのかけがえのない本になってしまった。(笑)アマゾンで売ろうとした自分の心が邪道(じゃどう)で、

不埒(ふらち)!

と、禅師に罵倒(ばとう)されそうな気がしてたまらない。

不思議な秋の夜長の読書である。

音楽配信中。気に入ったらダウンロードあるいはお買い上げいかがなものでしょうか?作品を通して聴いていただくのが作者の私からの一番のお勧(すす)めです。

フロイトが夢の中で聞いたメロディー

ある曲のミックス・マスタリング作業をやっていて完全に行き詰ってしまった。何をやっても上手(うま)くいかない。自分の思い描いた像がそこにあるのだが、届かないのだ。簡単に済むと思っていたはずが、もう1週間くらい停滞(ていたい)してしまった。頭の中ではドラマや映画のように次から次へと作業がはかどっていくのだが、現実は遅々(ちち)として進まない。(笑)しかしながら、こういうことはよくある話で、何度も経験して来ている。こういう時は一旦(いったん)現場を離(はな)れるに限る。

ということで、このブログに向かってしまった。(笑)さて、何を書こう?今日も窓からそそぐ外の日差しはまぶしいぞ!

最近は暖かくなったので、また読書を再開した。寒いと自分は読書しないのだ。(笑)なぜだかと言うと、寝る前に布団の上に横になって本を読んで、睡魔(すいま)が襲ってきたら、本を閉じ、灯(あか)りを消して寝るという習慣になっていて、寒い季節だと体が冷えちゃって、読む気が、つい、しなくなってしまうのだった。手がかじかみながら本を読むのも辛(つら)いよ~。(笑)暖房つけて読めばいいじゃないか!と言われてしまいそうだが、暖房つけて、布団(ふとん)にくるまって時間を過ごすと体が温(あたた)まりすぎちゃって、眠れなくなってしまうのだ。多少、寒いかなと思うくらいに布団に潜(もぐ)り込んで、体が温まって自然と寝てしまうというのが、自分にとってはベストで、布団がその日、干してあればさらに快適に眠れるのであった。(笑)

寝る前に読む本はまちまちなのだが、やはり内容が難しい本を読むほど眠気(ねむけ)が襲(おそ)ってくる速度も速くなる。(笑)※ダーウィンの「種の起源」を読んでいた時には、読み始めて10分もたたないうちに眠くなって、布団にくるまってあっという間に寝てしまうという期間が何ヶ月も続いた。(笑)早くこの本を読み終えようとするのだが、眠くなるのは早いし、そうした難しい本に限って内容も膨大(ぼうだい)にあって、「種の起源」も「上」、「下」の2巻に分かれていたりなんかして、読み終えるのに半年くらいかかったと記憶している。(笑)

※ダーウィン「種の起源」・・・詳しくはウイキペディア

最近また読み始めたのも、「種の起源」に負けず劣(おと)らず難しい本で、※フロイトの「夢判断」という文庫本を読んでいる。「夢判断」も「上」、「下」2巻に分かれていて膨大な量なのだが、実は1回読み終えていて、あまりにも内容が難しいので、もう1回読んでみるかと、再度読み返している途中なのであった。「下」巻の最後1/4くらいのところで、冬になり止(と)まっていたのだが、暖かくなったのでまた読書を再開させたのであった。

※フロイト「夢判断」・・・詳しくはウイキペディア

なんで、フロイトの「夢判断」なんて、こんな小難しい本を読み始めたかと言うと、私の「月」という作品の最後から2曲目に「メロディー」という曲があって、この曲は曲名どおり一つのメロディーだけを延々繰り返す仕掛けになっていて、そのメロディーというのは、実は自分が寝ている時に思い浮かんだメロディーで、その時に夢を見ていたかどうかはわからないのだが、なぜか起きた後も覚えていて、そのメロディーに歌詞をつけただけの曲になっている。そんな寝ている夢の中で、メロディーを作るという人為的(じんいてき)作業が本当に行われたのだろうか?と自分自身の心の中に、疑心暗鬼(ぎしんあんき)があって、じゃあ1回フロイトの「夢判断」を、文庫本が本屋に置いてあったので読んでみようかと手に取ったのであった。

読んでみると、案(あん)の定(じょう)むずかしい本で、何を言っているのかさっぱりわからない。ただ1回読んでわかったのは、夢というのはフロイトが言うに、その人の願望充足(がんぼうじゅうそく)らしい。

願望充足(がんぼうじゅうそく)・・・。

もう少し、こんな難しい訳語ではなくて、もっとわかりやすい言葉でもないのかよ!?とも思うのだが、検索してみると、

願望充足とは、願望を空想上で達成する心理状態のことです。 夢やヒステリー、神経症の症状、幻覚は象徴的な願望充足です。

と、ある。その人の願いや望みを空想上でかなえるために夢をみるのだという。そんな馬鹿(ばか)な!わけのわからない夢などいっぱいあるし、願望充足のはずはないじゃないか!?と、みなさん思われるかもしれないが、フロイトはそうした反論を、夢に表(あらわ)れる現象というのは、いろいろな二次加工(にじかこう)がされていて、真実はその奥に隠されていると主張して、ひとつひとつ証拠(しょうこ)を示して論破(ろんぱ)していくのであった。

また「夢判断」の特長として、「夢」という曖昧(あいまい)なものを、証拠を示して、論理(ろんり)立てて解明していこうとするところが、東洋人の私としては、この本がものすごく白人ぽいと言おうか、西洋文明を感じるのであった。

コロナ禍の東京オリンピックが開かれるかどうかは科学の証明がないといけないと、アメリカのバイデン大統領は表明しているが、「夢」の解明を、できるだけ客観的に、まるで科学に基づくかのように論を語(かた)るフロイトは、占いや運勢を信じる人たちが語るロマンチックな夢解釈とは、ちょっと違った思考回路を持っていて、はたしてこの考えが正しいのかどうなのかは今の自分にはわからないが、この本が世界中で読まれ、この本によって精神分析がおこなわれ、心の病(やまい)から救われた人たちもたくさんいたからこそ有名になったわけでもあるのだろうし、相当な部分で当たっているのだろう。

この本が出たのは100年前の20世紀初頭で、精神分析のもはや古典書物なのだと思うが、現在の精神分析とはもっと進んでいると言おうか、どのような論を展開(てんかい)させているのだろうか?たぶんもっと細分化(さいぶんか)されているのだろうな。もうこうした本を読むことはないのだろうが、ふと、そう思った。テレビのニュースで精神分析医が人は誰でも人生に一度は鬱(うつ)になる期間があるということがわかって来たと言っていた。もう、21世紀はすごい世の中なりそうだ。(笑)

ちなみに、この私の「メロディー」という曲の歌詞作成時に、最初は”喜びのメロディー”と”悲しみのメロディー”の2つ言葉を使っていたのだが、”悲しみのメロディー”は消して、”喜びのメロディー”に統一した。なぜだろう?自分でもわからない。

けど、夢の中で聞こえるメロディーは”悲しみ”であってはいけない、”喜び”であってほしい!と自分の心が願っている気がして、、、フロイトが言う”夢とは願望充足(がんぼうじゅうそく)である。”と言うのは、あながち間違いではない気が最近はなんとなくしている。

最後に、繰り返されるこの通り一遍(いっぺん)等(とう)のメロディーが終わって、想像外のラップが始まるという展開がこの曲には待ち受けていて、(笑)ぜひ、このラップも聴いてもらえればなと思っているのだが、誰も聴いてくれない。(笑)

tunecoreが、コロナ禍特別企画として3年間無料配信サービスをすると言うので、それを利用してこの曲をストリーミングでも配信している。配信時に、プロモーションの動画をどうしよう?と思い、ラップで最後”宇宙にもどる、もどるだけ~”と何度も繰り返しているので、ゆっくり宇宙が動く動画を作成してみたのだが、誰も見てくれない。(笑)確かに退屈な動画だ。(笑)

ただ、ユーチューブなんかを見ると単純な動作だけがある音楽動画に何万回の視聴がついていたりして、それを真似(まね)したつもりだったのだが、うまく行かない。やはりフォロワー数とかは裏に何かあるような気がするのだが・・・。それは置いておいて、

とりあえずは、この「メロデイー」という曲を聴いてみないかい?作品「月」の中、9曲目。あるいは、ストリーミングでも配信中です!気に入ったら買ってください。よろしくお願いします。

音楽配信

「メロディー」動画。星が実は徐々に動いて行くのであります。(笑)

緊急事態宣言下での司馬さんの言葉

緊急事態宣言真っただ中の都下なのだが、街に出てみると意外にたくさん人が出ていると言おうか・・・商店街の中には肉を求めて行列ができていたりなんかして普段と変わらない光景が繰り広げられていた。これで大丈夫なのかな?と思うのだが、来週あたり位からは今日都知事が指定職種に休業要請するようなので店を閉めたりするところもかなり出て来るのだろう。

今朝のトップニュースは世界恐慌以来の景気の落ち込みということだった。これから世の中どうなって行くのだろう?心配しても始まらないが、現実生活に本当に影響が出て来るのはこれからなんだろうな。

こんな時は本を読むに限る!と言いたいところだが、最近はほとんどお酒ばかり飲んでいて読みかけの文庫本に挟(はさ)まれた栞(しおり)の位置はずっと同じままだ。お正月もそうなのだが、大体自分は家にお酒があればある分だけ飲もうとしてしまう。外出自粛ということなので、食料は家族に任せ、なぜか自分はビールなのだがお酒のまとめ買いだけをしてくる。(笑)しかし結局は数日の内に飲み干してしまってかえって平時より格段に飲む量が増えてしまった。(笑)

これでは如何(いかん)!と思い、ここ数日は多少知恵を絞ってビールをグラスに注(そそ)がずに、缶のまま口をつけるようにしたところ飲む本数が減った。グラスに注ぐと泡が出てしまいその分苦(にが)みが消えてゴクゴクと風呂上りに飲む量が増えてしまうのだが、缶のままだと苦みがまだグッと凝縮されていて余り一口で飲む量が進まないのだ。この禁酒方法ビール好きの人には参考にして頂きたい。(笑)

せっかく本の話になったので久しぶりに自分の読書体験をお話したいと思う。今回は時代小説を色々読んだ楽しい思い出を語りたい。昔は駅の売店の新聞棚の上によく文庫本の棚が吊るされていて、そこによく置いてあったのは”赤川次郎”とか”松本清張”、”向田邦子”といった有名な作家さんたちの本だと大概(たいがい)決っていた。

自分は子供の頃はこういう大家といわれそうな作家の本を嫌っていて、”村上春樹”とか”吉本ばなな”とか当時新進気鋭の作家の小説をこれがお洒落なんだといわんばかりの感じで読んでいたものだった。(笑)「文豪」という言葉そのものが余り好きでなく、そうした臭いを漂わせていた有名な作家の小説を意味なく嫌っていた。

それを覆(くつがえ)したのが司馬さんだった。司馬遼太郎(しばりょうたろう)。私が語らずともみなさんの方がよく知っているかもしれないが一応説明すると、幕末から戦後までの右肩上がりの時代だった小説を多数書いてきた昭和の大作家で、NHKの大河ドラマでも何度も取り上げられ、代表作に「竜馬がゆく」とか「坂の上の雲」とかあったりする。

お正月に家族の田舎に行くと何もすることがなく、近くの海を眺めに行くか部屋に籠(こも)って本を読まざるをえない状況になるので、東京駅の売店で田舎で司馬さんの本を試しに読んでみるかと買ったのが司馬さんの文章との出会いの始まりだった。

子供の頃のイメージとすれば上で述べたように、文豪の人たちの中の一人という感じが強かったのだが、読みだすと止まらなくなってしまった。特に「竜馬がゆく」は新聞の連載小説だったらしく長編なのだが、中だるみもなく終わりまで一気に読めた。坂本龍馬にほとんど興味がなかったのだが、この小説のおかげで幕末から明治維新にかけて起こった歴史上の事件や人物になんだかとても詳しくなってしまい(笑)、10年くらい前に大河ドラマでやった「龍馬伝」を見ながら隣で無理やりこのドラマを見ることに付き合わされた家族に、”武市半平太は人を殺める指令をいっぱい出していたから、最後は切腹させられたのだよ~。”とか”お竜(龍馬の妻)はここで風呂上りに素っ裸になって龍馬に幕府の取り締まりが来たのを知らせたのだ~!”と有名な寺田屋事件とかを実は司馬さんからの受け売りの言葉なのに、まるで歴史家のようにもの知り顔で解説したのだった。(笑)

司馬さんが坂本龍馬を有名にした張本人で、この小説がないと坂本龍馬は未だに歴史の闇に消されていたと言っても過言ではないのだと思う。自分の子供の頃は歴史の教科書に坂本龍馬の名前は無かったか、西郷隆盛のように太字で記されず細字だったような気がする。今じゃ聞く所によると堂々と教科書に載っているらしい。

このように司馬さんは他の人とはちょっと違った歴史のとらえ方をする。この人はただの昭和の文豪ではないと最初に思ったのは、小説ではなく司馬さんが日本全国を旅歩いてその地方地方の歴史を紐(ひも)解く「街道をゆく」というエッセイの中で、”日本人は弥生時代にお米を大量生産するという稲作システムを開発した。そのおかげで楽をすることを覚えてしまった。”と書いていたことだった。この文章を読んだとき我ながらハッとした。楽することを覚えてしまったと言われても・・・しかし、、、確かにそれ以前は日本人は個々の狩猟生活を送っていたはずで、私がそれまで常識と思っていた私も含めて日本人は先祖代々脈々と和を持って良しとする農耕民族であるという先入観をひっくり返されてしまったのだった。米を周りのみんなと協調して真面目につくり、神様に感謝して美味しく食べようという一般の日本人が誰もが思っている自分たちの日本人観をこの人、元々信じちゃいないんだ。。。

日本人は農耕民族じゃないのかよ~!子供の頃からそう教えられて来たじゃないか~。日本人の主食は米じゃないのかよ~!食卓の上にごはんがないと駄目だろ~。白いごはんと一緒にオカズを食べるのが一番美味いだろうよ~!それが日本人じゃないのか~。ごはんは日本人の心のふるさとだろう~!ところが司馬さんはそんな日本人の大半が思っている声を”お前らそんな甘いこと云ってるから駄目なんだ。”と一蹴してみせたのだ。

俺たちは農耕民族じゃない!

こう思ってしまい一遍(いっぺん)に司馬さんが好きになってしまったのである。(笑)

サッカーのワールドカップ日本代表が世界で戦う時、”個でなくチームの和”をいつの代表監督も強調するのだが違っていると思う。試合を決めるのは絶対にゴール決めてやる!という強靭な精神を持ったマラドーナのような個なのだ。日本の特長はそんな気の合った友達同士のぬるい団体性になんか無く、”武士は食わねど高楊枝(たかようじ)”という格言があるように、いくら腹が減ってもその素振りすら見せずにやせ我慢する侍(さむらい)精神であるはずなのに。(笑)

今、日本いや世界が戦後最大の危機に直面してるという。何年か前にどこかの新聞の書評で司馬さんが今の時代生きていたらどんな事を言っただろうか?と書いてあったが、世間が混沌(こんとん)としている今こそそんな司馬さんの歴史観を聞いてみたい。なんて言うのだろうな?

世界は楽することに慣れきってしまっていた。

と言ったりしてネ。(笑)音楽配信中 聴いてみませんか!?

世界はひとつ