YUKIO井の頭公園ライブ真剣十番勝負その1

最近、右肩(みぎかた)の肩甲骨(けんこうこつ)まわりの筋肉が凝(こ)り固まってしまって痛い。揉(も)みほぐすのだがなかなか治らない。なんでこうなってしまったかと言うと原因はたった一つしか考えられない。それは毎週のように週末、井の頭公園で唄をうたって1日中ギターをジャカジャカ弾いていたからだと思う。右肩の筋肉が悲鳴(ひめい)を上げているのだ。

はじめ井の頭公園で唄うことになった時、1日中唄をうたうのでは喉(のど)も体ももたないと思いせいぜい1時間唄って休み、また1時間唄う感じの2セットくらいが限度かと思っていた。しかし現実がそれを許してくれなかった。

公園の鳥たちとハミングしながら唄うのだが、一向に人間の方は振り向いてくれない。最初思い描いていた、ほどほどに唄ってほどほどに休みを入れて公園に遊びに行く感覚では誰も聴いてくれないのだ。誰もが知っている有名なヒット曲を唄うのでもなければ、大道芸人のようにキテレツなマジックを披露して人を驚かせるものでもない、当然、他人(ひと)は自分の前を行き来するだけなのである。

そうすると、心の中の自分の小さな声が

こんないい唄うたっているのになんでわかってくれないんだぁ~!負けたくねぇ~よ!

と叫び始めて(笑)、自然、段々(だんだん)気持ちが熱くなって、気づくと何時間も我(われ)を忘れて唄うことになってしまうのだった。そうした気持ちが伝わるのかどうか知らないが、そんな時に限ってどこからか来た人がお金を落としていってくれたりするし、どれだけ唄っても1日お金が落ちない日もある。(笑)

このように現実はもの凄く厳しいのは身に染みてわかっているので、最低限自分自身が真剣に唄わなければ誰も聴いてくれないと思い、覚悟を決めて唄っている。知らない内に肩が痛くなろうが、足がつりそうになろうが気にしてられないのだ。

自分の唄でお前を振り向かせてやる~!

こんな風に唄っているから、ギターを弾き過ぎて気づけば肩もおかしくなっていようものだ。(笑)

今現在、コロナウィルスのおかげで井の頭公園で唄うのはご法度(はっと)になっている。自分にとってはなんだか丁度いい休みだ。このコロナ休暇のうちに体を休めて右肩も治したい。おかげでこのブログももう少し書けるかなと思ったのだがなかなか進まない。久しぶりなのでこのように井の頭公園で半年くらい唄った私のたくさんある真剣勝負ライブの中の思い出の一つを語ってみようと思う。(笑)

大概(たいがい)公園に来た親子連れの興味は私の音楽そっちのけで、大道芸人の方に行ってしまいそこに人の輪ができたりする。悔しくないと言えば嘘(うそ)になるが、比べられてもこちらは誰も知らないオリジナルの唄を唄っているのだし、そんな見え透いたマジックに踊らされて何が楽しいのだ?真贋(しんがん)※を見分ける目を子供に付けさせろよ、お母さん!(笑)と、口に出しては言わないが内心思ってたりもする。負け惜しみじゃないかと言われそうだが、その通り!負け惜しみです。(笑)

※真贋(しんがん) 本物とにせ物。

ただ、そうした小さな子供の中にも周りに同調しない変わり者みたいな奴(やつ)も必ずいて、そういうのが私が唄っているところに近寄ってくるのだ。(笑)子供はやっぱり素直で、私の曲を聴いて体で表現しようとするというのか踊ろうとする。お母さんが止めようとするのだが言う事をきかない。(笑)お母さんが日本人でたぶん父親が黒人の小さな女の子が踊ってくれた時には驚いた。まるでリズム感がまだ教えられてもいないのに裏(うら)ノリになっていてヒップホップダンスみたいになっているかのようだった。純粋な日本人の女の子のリズム感とはまったく別物のように見えた。話が逸(そ)れた。今回はその黒人の女の子の話をするつもりはなくて、また別の日本人の小さな女の子姉妹と弟なのかわからないが男の子1人の3人の子供が私の唄を聴いてくれた時のほのぼのとした小話(こばなし)をしようと思っていたのに。(笑)

公園で音楽を奏でている人間は私も含めて何人かいて、だいたいはベンチ近くで音を出したりする。ベンチで休んでいる人たちに向けて演奏するのだが、意外にベンチに座っている人たちよりも、手前の道路を歩いて来る通行人の方が不思議と反応してくれたりしてお金を落として行ってくれたりもする。

その日も結構唄いつつも、誰も反応してくれないと心の中で苦々(にがにが)しく思っていたところ、小学校2~3年生くらいの女の子とまだ幼稚園くらいの女の子姉妹が後ろから突然現れた。大きいお姉ちゃんの方が私の唄のどこかに反応したようで暫(しばらく)私の前で二人で耳を澄ましてくれた。こういう状況は何度も経験しているので、”よし、小さなガキに向けてウケる曲をやってやる~。”と「ボクはモグラ」(アルバム”YUKIO”の中の7曲目。各々の環境に合わせた音楽プレーヤーで試聴できます。)という曲を唄ってあげると、案の定喜んじゃって、キャー、キャー、叫びまくって私の周りを二人でグルグル回って、また目の前に止まって聴き始め、今度は”モグラだ!モグラだ!”と叫んでまたグルグル回っている。そうこうしてる内に知らない男の子が1人交じって3人で唄っている私の周りを回ってくれる状況になった。

余りに楽しそうにしているので”よし、じゃあもっと楽しませてやる!”と、「チュウ!チュウ!チュウ!」(アルバム”月”の中の5曲目。各々の環境に合わせた音楽プレーヤーで試聴できます。)という唄をうたってあげると、予想通り”キャー、チュウだ!チュウだ!”と叫んでまた回り始め、もっと可笑(おか)しくさせてあげるぞと”おそばを食べたいチュル、チュル、チュル。おうどん食べたいチュル、チュル、チュル。”と韻(いん)を踏んで唄うと、一瞬立ち止まって考えて、またまた”キャー、チュル、チュルだって~!チュル、チュルだって~!変~。変~。”とこの曲をうたっているあいだじゅうグルグル回られたのだった。

井の頭公園ライブ 池南側

その内どこかに消えて行ったのだが、暫(しばら)くして3人がニコニコしながらまた私の前に現れると、投げ銭用の升(ます)にお金を落として行ってくれた。お姉ちゃんが100円で妹が10円。(笑)男の子も確か落としてくれたのだが金額はちょっと思い出せない。

そうか、この娘たち自分に投げ銭しようと思って親にお金をもらいに行ってたのか。お小遣いもないのにね~♪♪そう思うとすごく微笑ましく感じられたのと同時に

どうだ!今回の真剣勝負はオレの勝ちだ~。

と、今までにない幸福感を感じられた瞬間だった。(笑)振り向かせてやったぞ、この娘たちを!金額なんて関係ない。この110円が自分にとって1億でも2億円でもあるのだ。年齢なんて関係ない。この娘たちは見ず知らずの私の音楽に熱狂したのだから。やってやったぞ~!と思う反面、実際は音楽で110円しか稼げない現実の自分の姿にこのままでは駄目だ、けどどうすればいいのだろう?手が無いよと苛立(いらだ)ちを覚えたりもするのだった。若い頃はこれで十分幸せだったのかもしれない。しかし歳(とし)をとった今、色々な現実を見てきてこの110円をどう膨らませればいいのか?それを考えるしか手立てが無いことに呆然(ぼうぜん)とするのだった。

この話には余談(よだん)がある。その3人の子供たちが立ち去って暫(しばら)くして、また別の小さな女の子と父親の親子が唄っている私の前に現れた。何分間か聴いてくれた後、女の子が私よりも若い父親に向かって投げ銭用の升(ます)にお金を入れてとせがんだのだ。若いお父さんは嬉しそうな顔をして升(ます)に100円玉を入れてくれた。そして女の子に”これでいいの?”と尋ねると、女の子は”ウン!”と言って満足そうな顔をして親子は向こうに行ってしまった。

たぶんこの女の子、3人の子たちが私に楽しそうに投げ銭を落としている姿をどこからか遠目で見ていて、自分もやってみたいと思ったのだろう。私の音楽なんて別に聴いてはいなかった。けどこれが人間の基本的な行動原理の一つのように思われて、生まれつき人間はこうした他人(ひと)が集まって楽しく騒いでいる姿をみると、何をやっているのだろう?自分も参加してみたい!とのぞき見したくなる心理が働くような気がする。この女の子の行動は典型のような気がした。

集団が人を呼ぶと言うのか、自分の音楽の周りに他人(ひと)が少しでも集まるようであれば、それを見て他(ほか)の人間も寄って来る!中身とは別にTV(テレビ)の視聴率が高いというだけで人はその番組を見るし、ユーチューブのフォロワー数が多ければやはりそれだけそのチャンネルは面白いと思われ更に登録者数が増えていくスピードも上がって行く。公園で唄っていると大道芸人の人たちがお互いサクラになってあげて、最初他人(ひと)を呼ぼうとするのもこうした人間の行動心理を十分わかっていて研究し尽くしているからこそできる計算された行動のようにも見受けられる。

さておき自分である。コロナ休暇がいつまで続くかわからないが、この休みが終わったらまた公園で唄い始めようと思っている。その時には、人寄せとして次の対策案が実は私の頭の中にあったりする。(笑)まだ明かさないが機会があればこのブログでも紹介できればいいと思っている。大した案でもないのだけどね。(笑)

”月”音楽配信ページへ 聴いて下さい。

井の頭公園での投げ銭専用升(ます)

鳥たちが応援している。-メシアンの音楽-

今日はいい天気だが、昨日は天気予報だと雪が降るかもしれないということで小雨の降る寒い一日だった。にもかかわらず井の頭公園に行って唄って来てしまった。(笑)案の上、ポツリ私一人だけで他の大道芸人の人たちは誰もいなかった。

これくらいの小雨だと大丈夫だと判断し行ったのだが、公園はいつもと違って当然のごとく人がまばらであった。最近は寒いので唄い始める前にトイレに行くのだが、近くのトイレが工事中で遠くまで行かなければいけないので面倒くさい。

用を足し、唄い始めた。スラスラ、大分(だいぶ)歌詞を体で覚えて来たな。「YUKIO」というアコギ弾き語りの作品に入っている重要な曲の歌詞はほとんど覚えた。歌詞帳を見なくてもなんとなく大丈夫なような気がする。なんとなくじゃ駄目なので確信に変わるまでもう少し唄いこみたい。それと唄に感情表現も少し入れられようになって来た感覚もちょっとあったりなんかもする。やはり唄いこむということは大切だ。

公園では1曲唄い終わると、当然誰かが拍手してくれるわけでもなく、木々の中にいる鳥がざわめく。擬声語を入れて説明したいが、どんな擬声語にしようか上手く想像がつかない。ただ私の中では鳥たちが喜んで”いいぞ~!もっと唄え~!”と応援してくれているものだと感じている。(笑)昨日は小雨でそんな小鳥たちはざわめかなかったが、晴れた日には本当にたくさんの鳥たちが曲が終わると拍手してくれる。これが気持ちいい!いくら唄っても鳥たちが”ヨッ!オレたちの仲間!”と応援してくれる感じで疲れもふっとぶのだ。

昔はよく井の頭公園ではなく近所の善福寺公園に行った。毎朝善福寺公園を散歩した。自称公園好きなのである。(笑)公園の醍醐味(だいごみ)は鳥のさえずりや虫の鳴き声だと思っている。車の音や工事の音を聞いていてもちっとも楽しくない。

実は自分の中ではもうほとんどロックだとかジャズだとか流行歌に興味が無くなっていて現代音楽にだけは食指が動くのだが、その現代音楽の中でメシアンさんというフランスの作曲家がいる。はじめて白状するがメシアンが大好きなのだ。ただもう亡くなってこの世にいなくなって久しいが、いまだにメシアンの音楽というのは評価が定まってないらしい。

メシアンの音楽を聴くと、公園の鳥のさえずりを聞いている感覚に襲われる。何かの書物でメシアン当人がいろいろな鳥の鳴き声を録音機に録ってその波長を分析したという記事があったと記憶しているが、特にメシアンの代表作といえる”トゥーランガリラ交響曲”を聴くとまるで善福寺公園をそのまま散歩している感覚になる。

鳥の鳴き声といってもいろいろな種類の鳥がいるので、その種類ごとに鳴き声が違う。カラスは「カー、カー」、スズメは「チュン、チュン」といった具合か。そうした鳥たちのさまざまなハミングが ”トゥーランガリラ交響曲” から聴こえてくるのだ。

クラシックのコンサートには若い頃学校の授業の一環で何度か行ったことがあるが、モーツァルトやベートーベン系統の音楽だったような気がする。それ以来クラシックコンサートには行っていないのだが、一度でいいから ”トゥーランガリラ交響曲” を生(なま)のコンサートで聴いてみたい。

それとメシアンの作曲技法本も読んでみたかった。誰も買わないので日本では廃刊になっていたのだが、今ネットで調べてみるとamazonとか紀伊国屋でも売っているようだ。残り少なくなった自分の頭にある曲を全部おもてに出してから、じっくりその本を読みたいな。けどその頃もう自分はこの世にいないだろうなぁ。

とりあえずは自分の唄は周りの人間は支持してくれなくとも、森の鳥たちが応援してくれている。そう信じている。鳥たちと歓喜の唄をうたいに来週も井の頭公園に唄いに行くぞ~!(笑)音楽配信

明日に向かって唄え!

日当たり良好。窓から日差しが眩(まぶ)しいくらいに差し込んで来る。長袖(ながそで)を羽織(はお)っていたのだが脱いでしまい、半袖(はんそで)になっている。

このブログを書くのも久しぶりだ。井の頭公園で休みに唄いに出て以来、時間が取れなくなってしまった。まあ、人気ブロガーになりたいわけでもないのでいいか。今は久しぶりに羽を伸ばしてモニターに向かっている。

何を書くにも今回は井の頭公園での体験を語るしかないのだろうな。ほとんど最近は休みになると1日中、日が暮れそうになるまで唄ってくる。先週は高円寺フェスの路上ライブもあって連続で唄ったりして休み明けには多少声が枯れたが、今はもう戻っている。

50過ぎてる大人のやることじゃないな。と、思いつつもたぶんずっと続けて行くのかもしれない。若い頃、自分の親を見て50代なんてずいぶん分別があって大人の顔をして世の中を語っていたように思うのだが、自分を顧(かえり)みてなんだこの様(ざま)は!?と思ってしまうのであった。

鏡(かがみ)だけを見れば、髪を染めてないので、50代半ばのおじさんがそこにいる。ただ気持ちはなんだろうか、大人の世界に憧(あこが)れていた子供の時のままだ。傍(はた)から観ると白髪だらけのおじさんが公園でわけのわからない唄をうたっているだけで、何のために生きているのかわからないのかもしれないが、自分とすれば幸せなのである。やっぱり自分は唄をうたっていたい。それをかみしめてしまった。

SNSでライブ配信してやろうと思いスマホで撮るのだが、なぜだか5分も持たない内に終了になってしまうので、最近使っている安い専用の小さいカメラで撮って家に帰ってから録画された動画を見たりする。自分の唄のチェックをするためだ。

ギターをジャカジャカ弾くだけなのだが、ギターを弾くことに注意が行ってしまい唄がどうも疎(おろそ)かになっていることに気づいた。自分の唄はあくまでも唄が中心であって、楽器を鳴らして聴かせたいわけではないことを再認識してしまった。たくさん唄うので歌詞帳を載せるために譜面台を立てているのだがやっぱりできるだけ歌詞は覚えて唄った方がいいと思った。井の頭公園で唄っている間に歌詞を全部覚えたいといおうか、体に覚え込ませたい。それがなんとなく自分の幸せ感のような気がする。

今週の土曜も唄いに行く。明日がどうなるかわからない日々が続くが、唄っている時だけはすべてを忘れて唄に集中していたい。音楽配信

YUKIO音楽キー key of life

井の頭公園で久しぶりに屋外で唄ったことでいくつか感じたことがあるのですが、その内の一つ、唄のキーについて今回は書こうと思います。

外で唄っていると音がすべて拡散していきます。ライブハウスなどの屋内では音の反響とかマイクにリバーブを掛けたりして誤魔化したりしますがそういうお化粧道具のようなものがないのです。そうすると自分の声のどこら辺が一番響きやすいか唄っている自分が一番わかるような気がしました。

一番響きやすいところをその曲のメイン、所謂(いわゆる)一番盛り上がるところに持っていけばいいのでしょうが、実は自分はやっていません。(笑)若い頃はそういう風にキーを変えて唄ったりもしたのですが歳と共にやらなくなりました。

プロの作曲家の先生達が歌手の声域を考えて作曲するのは当たり前のことです。昔、小室哲也が華原朋美の声域ギリギリの高さに合わせてキーを変えたりしたと、もう忘れましたがそんなことをTVかなにかで言っていましたが、それが一般的な考え方なのでしょうけど自分はやっていません。(笑)

なぜだかと言うと私の場合は自分で曲を創って唄って演奏までしてしまうからです。説明になっていませんけど、(笑)詳しく申しますとキーをどこにするかは問題ではなくて、最初にその唄が、あるいはメロディー、その言葉が頭に聞こえてきたところがキーなのです。移調する必要はないのです。

若い頃、盛り上がるところにメインボーカルの一番響くところを持っていく形でキーを変えたりしたのですが、ハモりとかが入ると声域がちがうコーラスの人がいてくれればいいのでしょうが、いないので自分で唄うことになります。そうするとハモりが高くて唄えないのです。

これはどこかおかしい。メインボーカルだけは他人(ひと)からの聴き映えはよくなるのかもしれませんが、曲の構造そのものが何か無理やり捻(ね)じ曲げられた感じになってしまってずっと不思議に思っていました。それで原点に立ち返って頭に聞こえて来たメロディー、言葉の最初のキーそのままで唄うことにしたのです。そうすると不思議といくつにも重なったハモりとかもすべて自分の声域内で唄えることができるようになったのです。

私の場合メインボーカルだけが唄ではなくて、演奏、バックコーラスも含めて自分の唄なのです。一人のギター弾き語りだとすべてを表現することはできませんが、他人(ひと)に良く魅せようと思って曲の構造を無理やり変えてまで唄うことはしません。ちょっと声が低くて遠くまで聞こえないだろうなと井の頭公園で唄っている時も、そんな曲があったりもしますが気にせず先日は唄って来ました。

お恥ずかしい話、若い頃はバックのバンドサウンドに負けまいと思い切り声を張り上げて、高い音を目指して唄って、翌日にはもう喉がガラガラで声がでないなんてこともあったりしたのですが、公園で唄った翌日、昨日も喉(のど)は余りおかしくなっていませんでした。

確かに外で唄うには声が余り出ていなかったような気がしますが、この歳になるとわかります。無理に声を張り上げてはいけない。徐々に徐々に回数を積み重ねていく内に環境に合わせて自然と声は大きくなっていくはずです。人間無理はよくない。(笑)

そんなことより歳のせいだと思うのですが、

最近はお酒の飲み過ぎで声が枯れてしまうのでした。(笑)

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