鳥たちが応援している。-メシアンの音楽-

今日はいい天気だが、昨日は天気予報だと雪が降るかもしれないということで小雨の降る寒い一日だった。にもかかわらず井の頭公園に行って唄って来てしまった。(笑)案の上、ポツリ私一人だけで他の大道芸人の人たちは誰もいなかった。

これくらいの小雨だと大丈夫だと判断し行ったのだが、公園はいつもと違って当然のごとく人がまばらであった。最近は寒いので唄い始める前にトイレに行くのだが、近くのトイレが工事中で遠くまで行かなければいけないので面倒くさい。

用を足し、唄い始めた。スラスラ、大分(だいぶ)歌詞を体で覚えて来たな。「YUKIO」というアコギ弾き語りの作品に入っている重要な曲の歌詞はほとんど覚えた。歌詞帳を見なくてもなんとなく大丈夫なような気がする。なんとなくじゃ駄目なので確信に変わるまでもう少し唄いこみたい。それと唄に感情表現も少し入れられようになって来た感覚もちょっとあったりなんかもする。やはり唄いこむということは大切だ。

公園では1曲唄い終わると、当然誰かが拍手してくれるわけでもなく、木々の中にいる鳥がざわめく。擬声語を入れて説明したいが、どんな擬声語にしようか上手く想像がつかない。ただ私の中では鳥たちが喜んで”いいぞ~!もっと唄え~!”と応援してくれているものだと感じている。(笑)昨日は小雨でそんな小鳥たちはざわめかなかったが、晴れた日には本当にたくさんの鳥たちが曲が終わると拍手してくれる。これが気持ちいい!いくら唄っても鳥たちが”ヨッ!オレたちの仲間!”と応援してくれる感じで疲れもふっとぶのだ。

昔はよく井の頭公園ではなく近所の善福寺公園に行った。毎朝善福寺公園を散歩した。自称公園好きなのである。(笑)公園の醍醐味(だいごみ)は鳥のさえずりや虫の鳴き声だと思っている。車の音や工事の音を聞いていてもちっとも楽しくない。

実は自分の中ではもうほとんどロックだとかジャズだとか流行歌に興味が無くなっていて現代音楽にだけは食指が動くのだが、その現代音楽の中でメシアンさんというフランスの作曲家がいる。はじめて白状するがメシアンが大好きなのだ。ただもう亡くなってこの世にいなくなって久しいが、いまだにメシアンの音楽というのは評価が定まってないらしい。

メシアンの音楽を聴くと、公園の鳥のさえずりを聞いている感覚に襲われる。何かの書物でメシアン当人がいろいろな鳥の鳴き声を録音機に録ってその波長を分析したという記事があったと記憶しているが、特にメシアンの代表作といえる”トゥーランガリラ交響曲”を聴くとまるで善福寺公園をそのまま散歩している感覚になる。

鳥の鳴き声といってもいろいろな種類の鳥がいるので、その種類ごとに鳴き声が違う。カラスは「カー、カー」、スズメは「チュン、チュン」といった具合か。そうした鳥たちのさまざまなハミングが ”トゥーランガリラ交響曲” から聴こえてくるのだ。

クラシックのコンサートには若い頃学校の授業の一環で何度か行ったことがあるが、モーツァルトやベートーベン系統の音楽だったような気がする。それ以来クラシックコンサートには行っていないのだが、一度でいいから ”トゥーランガリラ交響曲” を生(なま)のコンサートで聴いてみたい。

それとメシアンの作曲技法本も読んでみたかった。誰も買わないので日本では廃刊になっていたのだが、今ネットで調べてみるとamazonとか紀伊国屋でも売っているようだ。残り少なくなった自分の頭にある曲を全部おもてに出してから、じっくりその本を読みたいな。けどその頃もう自分はこの世にいないだろうなぁ。

とりあえずは自分の唄は周りの人間は支持してくれなくとも、森の鳥たちが応援してくれている。そう信じている。鳥たちと歓喜の唄をうたいに来週も井の頭公園に唄いに行くぞ~!(笑)音楽配信

明日に向かって唄え!

日当たり良好。窓から日差しが眩(まぶ)しいくらいに差し込んで来る。長袖(ながそで)を羽織(はお)っていたのだが脱いでしまい、半袖(はんそで)になっている。

このブログを書くのも久しぶりだ。井の頭公園で休みに唄いに出て以来、時間が取れなくなってしまった。まあ、人気ブロガーになりたいわけでもないのでいいか。今は久しぶりに羽を伸ばしてモニターに向かっている。

何を書くにも今回は井の頭公園での体験を語るしかないのだろうな。ほとんど最近は休みになると1日中、日が暮れそうになるまで唄ってくる。先週は高円寺フェスの路上ライブもあって連続で唄ったりして休み明けには多少声が枯れたが、今はもう戻っている。

50過ぎてる大人のやることじゃないな。と、思いつつもたぶんずっと続けて行くのかもしれない。若い頃、自分の親を見て50代なんてずいぶん分別があって大人の顔をして世の中を語っていたように思うのだが、自分を顧(かえり)みてなんだこの様(ざま)は!?と思ってしまうのであった。

鏡(かがみ)だけを見れば、髪を染めてないので、50代半ばのおじさんがそこにいる。ただ気持ちはなんだろうか、大人の世界に憧(あこが)れていた子供の時のままだ。傍(はた)から観ると白髪だらけのおじさんが公園でわけのわからない唄をうたっているだけで、何のために生きているのか分からないのかもしれないが、自分とすれば幸せなのである。やっぱり自分は唄をうたっていたい。それをかみしめてしまった。

SNSでライブ配信してやろうと思いスマホで撮るのだが、なぜだか5分も持たない内に終了になってしまうので、最近使っている安い専用の小さいカメラで撮って家に帰ってから録画された動画を見たりする。自分の唄のチェックをするためだ。

ギターをジャカジャカ弾くだけなのだが、ギターを弾くことに注意が行ってしまい唄がどうも疎(おろそ)かになっていることに気づいた。自分の唄はあくまでも唄が中心であって、楽器を鳴らして聴かせたいわけではないことを再認識してしまった。たくさん唄うので歌詞帳を載せるために譜面台を立てているのだがやっぱりできるだけ歌詞は覚えて唄った方がいいと思った。井の頭公園で唄っている間に歌詞を全部覚えたいといおうか、体に覚え込ませたい。それがなんとなく自分の幸せ感のような気がする。

今週の土曜も唄いに行く。明日がどうなるかわからない日々が続くが、唄っている時だけはすべてを忘れて唄に集中していたい。音楽配信

YUKIO音楽キー key of life

井の頭公園で久しぶりに屋外で唄ったことでいくつか感じたことがあるのですが、その内の一つ、唄のキーについて今回は書こうと思います。

外で唄っていると音がすべて拡散していきます。ライブハウスなどの屋内では音の反響とかマイクにリバーブを掛けたりして誤魔化したりしますがそういうお化粧道具のようなものがないのです。そうすると自分の声のどこら辺が一番響きやすいか唄っている自分が一番わかるような気がしました。

一番響きやすいところをその曲のメイン、所謂(いわゆる)一番盛り上がるところに持っていけばいいのでしょうが、実は自分はやっていません。(笑)若い頃はそういう風にキーを変えて唄ったりもしたのですが歳と共にやらなくなりました。

プロの作曲家の先生達が歌手の声域を考えて作曲するのは当たり前のことです。昔、小室哲也が華原朋美の声域ギリギリの高さに合わせてキーを変えたりしたと、もう忘れましたがそんなことをTVかなにかで言っていましたが、それが一般的な考え方なのでしょうけど自分はやっていません。(笑)

なぜだかと言うと私の場合は自分で曲を創って唄って演奏までしてしまうからです。説明になっていませんけど、(笑)詳しく申しますとキーをどこにするかは問題ではなくて、最初にその唄が、あるいはメロディー、その言葉が頭に聞こえてきたところがキーなのです。移調する必要はないのです。

若い頃、盛り上がるところにメインボーカルの一番響くところを持っていく形でキーを変えたりしたのですが、ハモりとかが入ると声域がちがうコーラスの人がいてくれればいいのでしょうが、いないので自分で唄うことになります。そうするとハモりが高くて唄えないのです。

これはどこかおかしい。メインボーカルだけは他人(ひと)からの聴き映えはよくなるのかもしれませんが、曲の構造そのものが何か無理やり捻(ね)じ曲げられた感じになってしまってずっと不思議に思っていました。それで原点に立ち返って頭に聞こえて来たメロディー、言葉の最初のキーそのままで唄うことにしたのです。そうすると不思議といくつにも重なったハモりとかもすべて自分の声域内で唄えることができるようになったのです。

私の場合メインボーカルだけが唄ではなくて、演奏、バックコーラスも含めて自分の唄なのです。一人のギター弾き語りだとすべてを表現することはできませんが、他人(ひと)に良く魅せようと思って曲の構造を無理やり変えてまで唄うことはしません。ちょっと声が低くて遠くまで聞こえないだろうなと井の頭公園で唄っている時も、そんな曲があったりもしますが気にせず先日は唄って来ました。

お恥ずかしい話、若い頃はバックのバンドサウンドに負けまいと思い切り声を張り上げて、高い音を目指して唄って、翌日にはもう喉がガラガラで声がでないなんてこともあったりしたのですが、公園で唄った翌日、昨日も喉(のど)は余りおかしくなっていませんでした。

確かに外で唄うには声が余り出ていなかったような気がしますが、この歳になるとわかります。無理に声を張り上げてはいけない。徐々に徐々に回数を積み重ねていく内に環境に合わせて自然と声は大きくなっていくはずです。人間無理はよくない。(笑)

そんなことより歳のせいだと思うのですが、

最近はお酒の飲み過ぎで声が枯れてしまうのでした。(笑)

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