18曲入り2枚組最新作

ここ何ヶ月、何も投稿せず、とうとう4月になってしまったな。本日4月1日、エイプリルフールの日だ。何かうそぶくかと思うのだが、うそぶくものも無く、このブログに向かうのだった。前回投稿したのはいつだっただろう?と調べると1月19日だから、ほぼ2か月半何もしていなかったわけである。

季節は冬から春に変わり、桜の見頃なのであるが、本日は冷たい雨で、桜を見る気分でも無く、パソコンに向かうしか無いのであった。いや、ちゃんと仕事をすればいいのだと思うのだが、何かもう頭が疲れてしまっていて、本日はもうおしまい、明日に回しましょう!

と言うことで、今回はとうとう私のオリジナル音楽作品がめでたく出来上がったことをご報告しなければなるまい。何番目のオリジナル作品になるのかは、数えてないのでわからないが、今回はとうとう2枚組18曲入りの大作になってしまった。笑 ただ、直近の3つの作品に続いて、この作品も、できたからと言って、すぐにストリーミングサービスで無料で他人(ひと)に聴いてもらうという気持ちは、今のところ、余り無くて、自分の音楽を気に入ってくれた人に買ってもらえればいいかなと思っているのであった。

できるだけ沢山の人に、自分の唄を届けたいという気持ちはあるのだが、時代の流れだといって、無理して無料ストリーミングサービスで聴いてもらっても、自分の努力が何も伝わらない気がして、今回の作品の曲たちも、自分が死ぬのと一緒に、あの世に持って行こうと思っていたりする。

内容は、この家に引越して来てからの10何年、夜、まさか自分が近所の飲み屋に通うようになるとは思ってもみなかったのだが、その飲み屋から聞こえて来た音楽や、週末に通ったクラシック音楽喫茶でよく聴いたモーツァルトやベートーベンのような西洋音楽の大御所たちの交響曲、ブルース・バーでライブをやった後に、いつもかっかていた黒人ブルース、家飲みしていた時によく聴いたモダンジャズやフリージャズ、あるいは現代音楽といった歌が入っていないインスト曲などに触発されて出来上がった曲群になっている。

言い方を変えれば、この家からいつも散歩に行く近所の街並みから聞こえて来た唄を、自分なりに吸収し、解釈し、消化し、唄ってみた、その結晶のような作品と言ってもいい。

まさか、自分が毎晩のように飲み屋に行くようになるとは!モーツァルトやベートーベンのすました音楽を聴くようになるとは!黒人ブルースは好きだが、ブルースのスタイルを真似をするようなことは絶対にやらないと決めていたのに!わけのわからないフリージャズとは一線を画していたはずだ!

と、こんな感じで人生とは不思議なもので、若い頃には毛嫌いしていたものを全部やっていたりもする。笑 若い頃の自分がこの作品を聴いたらどう感じるだろう?と、想像するのも結構楽しい。笑

作品名は「阿佐ヶ谷/高円寺」あるいは「高円寺/阿佐ヶ谷」。

高円寺に住んでる人には、なんで阿佐ヶ谷が前に来るんだよ!阿佐ヶ谷に住んでいる人にはなんで高円寺が前につくんだ!とクレームがつきそうだが、そう、ここ阿佐ヶ谷/高円寺(今回のブログでは杉並区役所が阿佐ヶ谷にあるので一応、阿佐ヶ谷を先に並べています。大概これで高円寺の住民もいやいやながら納得するらしい。)が、白状すると富山の田舎生まれ田舎育ちの私が今、住んでいる地元なのである。

自分の住んでいる場所をネットでとうとうさらしてしまったが、作品タイトル名がこうなっているからには仕方がないよな。「阿佐ヶ谷/高円寺」をよろしく!ぜひ、聴いてやって下さい。

ネット配信しないんだから、誰も聴けやしないじゃないか!と、お叱りを受けるのももっとも。おそまつな話なのであるが、自分の心の中では達成感が充満していて、幸せなのであった。

「ボクがキミをみている」ピアノ弾き語り

YUKIO オリジナルソング。ダウンロードで販売中。試聴も充実!聴いてみませんか!?気に入っていただけるようであれば、クレジット、paypal決済でお買い上げできます。

音楽配信やってます。spotifyだけでなく、アップルミュージック、ユーチューブミュージック、ラインミュージック、アマゾンミュージック等でも聴けます。作品を通して聴いていただくのが一番のお勧(すす)めです。CDも販売中。

自分にとっての新曲

イライラしている。どこに電話をかけてもやっていないか、年始の営業で忙しそうで出てくれない。昨年の末から頭に描いていたスケジュール通りにまったく進まなくて困ってしまっている。今年いったいどうなっちゃうのだろう?心配ばかりしていても気が重たくなるばかりなので、このブログに向かってしまった。

最近は音楽の聴き方が変わった。もう何年も音楽を買うということが無くなってしまって、昔のものを聴くはめになっている。自分の若い頃、聴いていたミュージックテープが捨てずに残っていて、その後のCDと合わせてミュージシャン別に整理がしてあって、何年か前はずっとマイルス・デイヴィスを、昨年は忌野清志郎を聴いていた。最近はスティービー・ワンダーを聴いている。

ストリーミングサービスのspotifyでも聴くことは聴いていて、黒人ブルースのプレイリストを作って聴いたりしていたのだが、なんだか飽きた。20代後半になる姪っ子がピカピカの新車の中でADOの”新時代の~♪”とか歌っている曲をspotifyでガンガンに流しながら一緒に口ずさんでいたので、若い子は今こういう曲が好きなんだ?と思い、”新時代のおろかもの~♪”というフレーズが思いつき、いつか公開してやろうとたくらんでいたのだが、この”新時代の~♪”という曲が昨年一番ヒットした曲らしく、紅白歌合戦にも出ていたようで、真似(まね)た曲を作ってもね~?と思い、どうしよう?破棄しようかな?と思案中なのであった。笑

最近の新聞で読んだところ、音楽ストリーミングサービスは全盛なのだが、聴かれている曲の内訳を見ると最近の曲が3割で、残りの7割は過去の曲らしく、やはり時間に淘汰(とうた)されずにしぶとく残ってきた曲は強いみたいだ。もちろん、すでに知っている曲だからこそ安心してストリーミングサービスで聴くという面もあるのだろう。

こうした曲を相手に、自分のギター弾き語りとピアノ弾き語りの名もなき曲は勝負を挑んでいる。3~4年配信し続けていて、もう誰も相手にしてくれないよと言われてしまいそうだが、止(や)める気は更々(さらさら)なく、世界中でこの曲を聴いていない人たちはまだ何十億もいる、この人たちにとっては自分の曲はまだ新曲なんだ!と思ってしまうのだった。

間隔をあけて、新曲を作って宣伝し商売をするというのは、もう若者向けだけでいいような気がする。若者は格好良さを求めて流行歌を求めるのかもしれないが、自分のようなジャンル区別なく、ただの音楽好きの人間にとってみれば、昔の曲も今の曲も、はじめて聴く曲は新曲なのである。毎週土曜日にコーヒーを飲みに行くクラシック喫茶でかかる何百年前に創られたモーツァルトやベートーベンの曲もはじめて聴く曲は何曲もある。その曲たちはすべて自分にとって新曲なのだ。新鮮で古い曲で片づけられない魅力がある。ADOの”新時代の~♪”という曲と同じ地平線上にあったりする。

本当にレコード会社かミュージシャン側が新作を出すと聞いて買ったのは、たぶんもう20年以上前になると思う。プリンスがプリンスという名前では無くて、なにか記号のようなマークでやっていた頃だ。それ以降はもう自分にとってみれば、古かろうが新しかろうが、はじめて聴く曲はジャンル関係なく、なんでも新曲なのであった。笑

オリジナルソング。ダウンロード販売中。試聴も充実!聴いてみませんか!?気に入っていただけるようであれば、クレジットカード、paypal決済でお買い上げできます。よろしくお願いいたします!(セキュリティー強化!!ご安心ください。)

他サイトでも音楽配信やってます。アップルミュージック、ユーチューブミュージック、ラインミュージック等でも聴けます。作品を通して聴いていただくのが一番のお勧(すす)めです。CDも販売中。

音楽の血

緊急事態宣言の1ヶ月の延長が決まった今年のGW、みなさんお家(うち)で何をなされてるのでしょうか?最近の報道を見てるとどうやらこの1、2ヶ月外出を控えればコロナも収束(しゅうそく)していくというわけではなさそうで、今後何年も付き合っていかなければならないことになりそうな論調に変わってきた。

ソーシャルディスタンス(社会的距離)を守って学校や会社に行く世界になって行くのだろうか?そんなこと言ってると集会なんてできないので、スポーツとかコンサートとか政治の街頭演説だってできないではないか?会社だって行く必要が無いのであればどんどん独立していく奴も出て来ると思う。誰もが想像できないような末恐ろしい世の中になって行くのかもしれない。

そんなことをぼんやり想像してみたが、、、考えたところで今現在、何か自分の行動が当面変わるわけでもなく自分は自分の音楽の道を行くだけである。今回は自分がこれまで聴いていいなと思ったり、影響を受けてきたミュージシャン(音楽家)のそのいいと感じた共通点について語ってみようと思う。音楽は主観だと思うのであくまで私の独断で語るものだ。

若い頃から色々な音楽を聴いて来た。ロックからブラックミュージックまで。歳と共にそれがジャズやラテン音楽になり、とうとう現代音楽に向かい、最近はもはやクラシック喫茶でバッハ、モーツァルトやベートーベンといった昔のドイツ音楽ばかり聴く生活になってしまった。原点回帰してるとも言える。(笑)

技巧的なものは全く別々のジャンルに当てはまるものでまちまちなのだが、自分の心の中ではこれらの音楽はすべて統一されているのである。それは音楽というのは最終的には血を感じさせないといけないということだ。

たぶん世の中には音楽を上手く奏(かな)でる人間は世界中にたくさんいると思う。しかし上手いだけや格好いいだけでは自分の心は動かない、、、そこにその人の血を感じさせないと駄目なのだ。血を感じさせると言おうか、その音楽の背後にどうしても血が漂って来てしまうと表現した方が正しいのかもしれない。

抽象的で曖昧な言い方ではなくて、ではその血と言うのは一体何かと言えば、具体的に言えばその人の歴史と地理でなければいけない。私にとっていい音楽とは、その人の親がどういう親であったり、地球上のどこら辺の街で育ったり、どのような社会環境であったりしたかをリアルに感じさせるものなのだ。

黒人のブルースにはその背後にあった奴隷制といった歴史を抜きには語れないし、アントニオ・カルロス・ジョビン(ボサノバの創始者)やピアソラ(アルゼンチンタンゴの神様)の音楽は私のような北半球で育った人間にしてみれば重力が逆になったようなリズムに感じられてしまい、地理的に南半球でしか生まれないような音楽に思えてしまう。そこに時空を超えて自分の知らない世界が広がっているような気がしてそうした音楽に夢中になってしまうのである。だから日本人がただ単に海の向こうのクラシックやジャズを演奏してみても、それは上手いのはよく分かるのだが、何を伝えたいのかどうもその意義がわからないのだ。

知り合いのご子息がお医者さんの卵らしく、まさかこの時期感染症の専門医になるのか?あるいは医者になったところでイタリアでは150人以上の医者が死んでますよ!と先日夜連絡をとる機会があり、酔っぱらった勢いで脅しのメールを送ったのだが、”外科医になります。”と素っ気ない返事が返ってきた。(笑)

このイタリア人医師が150人以上亡くなってしまった話とかを聞くと私の中では音楽の血を感じてしまうのだった。イタリアの人たちと言えばオペラを歌ったり、サッカーに熱狂したりなんかしてもの凄く感情的で情にもろいそんなイメージがあったりする。医療の現場でそんな情をはさむ余地などないのだろうが、ニュースに出て来るイタリアの医師は診療が終わった後に”医療崩壊が起きている。助けが必要だ。”とガサツにマスクを取り外して訴えていたりしたが、日本ではこんな適当なマスクの取り方などは多分ありえないだろう。

日本はしっかり情報が共有され管理されていて、医師も感染しているがイタリアほどの数でもない。しかし今日の新聞では東京ではコロナ陽性の可能性がある急患を受け入れる病院がなく患者は4時間以上たらい回しにされた事例が頻発していると書いてあった。感染症のことを知れば知るほどうかつに患者を診ると危険なのはもはや素人の自分でもわかる。自分がもし医師であるなら疑いのある患者を診たくないというのが誰もの本音だろう。

しかし、田舎にたった一人しかいないお医者さんが、夜中に門を叩かれ”ウチの爺(じい)さんが咳(せき)が止まらないんだ、苦しがっていて、コロナかもしれないがどうか診てやって下さい~!!”と涙目で懇願(こんがん)されたとすれば、そのお医者さんは門を開くのだろうか?しかもその爺さんというのはいつもピザが余ったらお裾(すそ)分けしてくれて世間話をしたよく知っているピッコロ爺さんだったならば・・・。

平時であれば躊躇(ちゅうちょ)なく誰でも診察に応じるだろう。しかし今回は感染する可能性はかなり高そうだ・・・、どうしよう?決断しなければいけない。アナタならどうしますか?自分であれば・・・自分であれば・・・多分できない気がする。しかし、

イタリア人の医師は診るはずである。医師である前に情が通った一人の人間であるからだ。それが今回語りたかった音楽の血でもある。音楽配信中