音楽の血

緊急事態宣言の1ヶ月の延長が決まった今年のGW、みなさんお家(うち)で何をなされてるのでしょうか?最近の報道を見てるとどうやらこの1、2ヶ月外出を控えればコロナも収束(しゅうそく)していくというわけではなさそうで、今後何年も付き合っていかなければならないことになりそうな論調に変わってきた。

ソーシャルディスタンス(社会的距離)を守って学校や会社に行く世界になって行くのだろうか?そんなこと言ってると集会なんてできないので、スポーツとかコンサートとか政治の街頭演説だってできないではないか?会社だって行く必要が無いのであればどんどん独立していく奴も出て来ると思う。誰もが想像できないような末恐ろしい世の中になって行くのかもしれない。

そんなことをぼんやり想像してみたが、、、考えたところで今現在、何か自分の行動が当面変わるわけでもなく自分は自分の音楽の道を行くだけである。今回は自分がこれまで聴いていいなと思ったり、影響を受けてきたミュージシャン(音楽家)のそのいいと感じた共通点について語ってみようと思う。音楽は主観だと思うのであくまで私の独断で語るものだ。

若い頃から色々な音楽を聴いて来た。ロックからブラックミュージックまで。歳と共にそれがジャズやラテン音楽になり、とうとう現代音楽に向かい、最近はもはやクラシック喫茶でバッハ、モーツァルトやベートーベンといった昔のドイツ音楽ばかり聴く生活になってしまった。原点回帰してるとも言える。(笑)

技巧的なものは全く別々のジャンルに当てはまるものでまちまちなのだが、自分の心の中ではこれらの音楽はすべて統一されているのである。それは音楽というのは最終的には血を感じさせないといけないということだ。

たぶん世の中には音楽を上手く奏(かな)でる人間は世界中にたくさんいると思う。しかし上手いだけや格好いいだけでは自分の心は動かない、、、そこにその人の血を感じさせないと駄目なのだ。血を感じさせると言おうか、その音楽の背後にどうしても血が漂って来てしまうと表現した方が正しいのかもしれない。

抽象的で曖昧な言い方ではなくて、ではその血と言うのは一体何かと言えば、具体的に言えばその人の歴史と地理でなければいけない。私にとっていい音楽とは、その人の親がどういう親であったり、地球上のどこら辺の街で育ったり、どのような社会環境であったりしたかをリアルに感じさせるものなのだ。

黒人のブルースにはその背後にあった奴隷制といった歴史を抜きには語れないし、アントニオ・カルロス・ジョビン(ボサノバの創始者)やピアソラ(アルゼンチンタンゴの神様)の音楽は私のような北半球で育った人間にしてみれば重力が逆になったようなリズムに感じられてしまい、地理的に南半球でしか生まれないような音楽に思えてしまう。そこに時空を超えて自分の知らない世界が広がっているような気がしてそうした音楽に夢中になってしまうのである。だから日本人がただ単に海の向こうのクラシックやジャズを演奏してみても、それは上手いのはよく分かるのだが、何を伝えたいのかどうもその意義がわからないのだ。

知り合いのご子息がお医者さんの卵らしく、まさかこの時期感染症の専門医になるのか?あるいは医者になったところでイタリアでは150人以上の医者が死んでますよ!と先日夜連絡をとる機会があり、酔っぱらった勢いで脅しのメールを送ったのだが、”外科医になります。”と素っ気ない返事が返ってきた。(笑)

このイタリア人医師が150人以上亡くなってしまった話とかを聞くと私の中では音楽の血を感じてしまうのだった。イタリアの人たちと言えばオペラを歌ったり、サッカーに熱狂したりなんかしてもの凄く感情的で情にもろいそんなイメージがあったりする。医療の現場でそんな情をはさむ余地などないのだろうが、ニュースに出て来るイタリアの医師は診療が終わった後に”医療崩壊が起きている。助けが必要だ。”とガサツにマスクを取り外して訴えていたりしたが、日本ではこんな適当なマスクの取り方などは多分ありえないだろう。

日本はしっかり情報が共有され管理されていて、医師も感染しているがイタリアほどの数でもない。しかし今日の新聞では東京ではコロナ陽性の可能性がある急患を受け入れる病院がなく患者は4時間以上たらい回しにされた事例が頻発していると書いてあった。感染症のことを知れば知るほどうかつに患者を診ると危険なのはもはや素人の自分でもわかる。自分がもし医師であるなら疑いのある患者を診たくないというのが誰もの本音だろう。

しかし、田舎にたった一人しかいないお医者さんが、夜中に門を叩かれ”ウチの爺(じい)さんが咳(せき)が止まらないんだ、苦しがっていて、コロナかもしれないがどうか診てやって下さい~!!”と涙目で懇願(こんがん)されたとすれば、そのお医者さんは門を開くのだろうか?しかもその爺さんというのはいつもピザが余ったらお裾(すそ)分けしてくれて世間話をしたよく知っているピッコロ爺さんだったならば・・・。

平時であれば躊躇(ちゅうちょ)なく誰でも診察に応じるだろう。しかし今回は感染する可能性はかなり高そうだ・・・、どうしよう?決断しなければいけない。アナタならどうしますか?自分であれば・・・自分であれば・・・多分できない気がする。しかし、

イタリア人の医師は診るはずである。医師である前に情が通った一人の人間であるからだ。それが今回語りたかった音楽の血でもある。音楽配信中

チェッカーボードの帰り道

チェッカーボードからの帰り道 JR中央線高架下

昨夜はチェッカーボード(阿佐ヶ谷のブルースライブバー)でライブだった。今回は4組の出演で1番目ということで夜7時30分から40分ほど唄ってきた。他の3組は有名な黒人ブルースやジャズのカバーをやっている人達で前に何度か一緒になったような気がするが、ほとんど会話もしないのでどうだったかは定かでない。

お客さんは相変わらずいない。忌野清志郎が自分の音楽を人気がとれないマイナーなブルース音楽と言っていたがその通りなのかもしれない。しかし清志郎が死んだ時、あれほど葬儀場の前にファンが列を成して悲しんだのも事実。ブルースはマイナーな音楽かもしれないが音楽の力(ちから)はすごいものだと未(いま)だに信じて唄ってる。

今回はいつもと違ってギターソロを入れてみることだった。大久保水族館というライブバーで演奏する時はカラオケをバックに唄って間奏にギターソロを入れているのだが、今回は間奏にカラオケが無いのでギターソロ1本でお客さんに聴いてもらうことになる。心配だったがやってみた。結果は、まぁ良くもあるし悪くもある。

バックにハーモニーが流れてないので、他人(ひと)が聴いてくれるかな?と心配したが録音したものを聴いてみると意外に普通に聴ける。ただチェッカーボードで演奏するようになって創った”アーモンド”というブルース調の曲の間奏がギターソロだけだと小節が数えられなくなって一体どこ弾いているのかわからなくなってしまうという前からの疑問点が解決されていない。ここをなんとかしないと。

今回の演奏メニューは1.アーモンド、2.タクシードライバーはAチューニング、3.ボクはモグラ、4.答え、5.間違ってない、6.太陽、というもので、動画も撮ったのだが照明の光が自分の後ろから出たり入ったりしてどうも気になって仕方がない、演奏も結構タイミングがずれていたりなんかしてよくない。”間違ってない”という曲は前回上手く唄えなくて今回あらためて唄ってみたのだが4回繰り返すところ5回繰り返してしまったりしている。色々(いろいろ)あるが、後日まとめてyoutubeにアップしてみようと思う。

ライブ=生きてる、ことに間違いなんてないと思っている。自分の行動には何か意味があるのだ。行動には無駄なものは無い。遠回りには遠回りの意味がある。明日を信じてまた唄うだけだ。ライブ聴きに来ませんか。

あなたに出会えることを夢みて。

音楽配信

カラオケ嫌い

来週の水曜日は阿佐ヶ谷チェッカーボードでライブだ。そろそろ準備しないといけない。何を準備するのかといえば単に曲順を考えるくらいなんだけれど。(笑)そんなこともないか?練習もしたりするからな。

他人のカバー曲をやるのは実は3曲ほどある。しかし全部ピアノの弾き語りなのでチェッカーボードではやらない。ここではすべてギター弾き語りなのだ。いや、そんなこともない?鍵盤を借りてやっている女の子もいた。

ともあれ、チェッカーボードでやる時は私はギター弾き語りなのである。「cocolo」という何から何まで全部ひとりでやった作品をつくった時、ライブでは当然その曲を一人で再現できないので録音したカラオケをバックにして唄っていいかと訊いたのだが、ウチは生演奏一本ですと言われてしまい、そうであればと腹をくくってギター1本片手に、片手じゃないな、両手か?唄をうたっている。

いまどきカラオケ演奏は禁止という店は少ないと思うが、ブルースのお店ということもあってか生演奏しか駄目なようで、なかなか筋(スジ)が通っていて宜しい。

実はライブバーで自分のオリジナル曲を唄っているくせに、カラオケが苦手なのである。自分の曲のカラオケは仕方なく唄っているのだが、一人で自分で駅前のカラオケボックスとかに行って他人の歌をうたったりしたことがない。いや、カラオケボックスには行ったりするのだが、それは自分の曲を練習する時に音楽リハーサルスタジオ代わりに料金が安いので仕方なく使っていたりするものだ。

ところが意外に私みたいな使い方をする同業のオジサンみたいな人達がアコギを背中に背負ってカラオケボックスにいたりなんかする。このオジサン、カラオケ歌いに来てる割にはなんとなくミュージシャンぽい、同業なのかな?冴えない顔つき、オレと同じだな?と内心思いつつエレベーター前ですれ違ったりする。(笑)

このように私はカラオケが好きではない。誘われて渋々歌ったことは何度もあるが、他人(ひと)を自分からカラオケに誘ったことは一度もない。昔、なんで自分で曲を創って唄っているのにカラオケが好きじゃないの?と私のライブに来てくれたお客さんに訊かれたことがある。どう答えたか忘れてしまったが、今考えると自分が考える唄の在り方とカラオケの世界は根本的に違っているように思う。

まず自分の唄は手作りである。カラオケは自動演奏だ。そう、楽なのだ。楽して歌ってはいけない。唄の重みがわからない。気持ちよく唄うにはどれだけ綿密な計算が裏で働いていなければいけないのに、それを体感できないのは私にとっては唄でない。

次にカラオケだと点数がついてしまう。唄に点数などないと思っている。そんなにこだわらなくても・・・と確かそのお客さんにも言われたような気がするが、私から言わせるとなんで歌に点数をつけるのだろうと思ってしまう。

唄に上手い、下手はない、聞いてくれる人が上手いと思えば上手いし、下手だと思えば下手なのだ。点数をつける意味がわからない。唄はコミュニケーションの手段であり、学校の成績ではないはずなのに。カラオケの点数が高くでる人は自分が歌が上手いと思ってしまい、低い点数の人は歌が下手だと思い込まされる・・・。

そんなわけないじゃないか~!

唄は自由である。偏差値なんて本来ありはしない。音楽を勉強し競わせれば商売になるために点数は必要なのかもしれないが、世の中みんなそこで踊っているだけで自分が求めている唄はそこにはない。だから私は駄目なのかもしれないが・・・。

お酒を飲みながらカラオケで有名な曲をみんなと楽しく歌うよりも、なんだこの唄は?と白い目で見られ無視され続けられた方がいい。現実そうなのだが・・・。

だって自分は自分なんだもの。音楽配信