ドビュッシーの館(やかた)

昨日からグッと冷え込みが強まり冬本番という形で、思わず毛布に包(くる)まって寝てしまいました。寒くて久しぶりに日本酒を熱燗(あつかん)にして吞んでしまったくらいです。2週間ぶりに行く荻窪公民館ピアノ室には雨が降っていたので自転車に乗れず電車で行ってきました。帰りはいつも荻窪駅地下の魚屋で魚を見て来るのですが、今回その前にちょっと違う所に立ち寄ってみました。

おお!なんだこの仰々(ぎょうぎょう)しい提灯(ちょうちん)は?大田黒(おおたぐろ)と書いてあるではないか。どこかの武家屋敷(ぶけやしき)のようで、それにしても門より奥にずいぶん道が伸びている。膨大な敷地だ。門をくぐって先まで行くと

またまた小さな門がある。ずいぶん広いな。さらにこの門をくぐって奥に行くと池があった。鴨(かも)が泳いでいて、池の中には大きな錦鯉(にしきごい)も泳いでいる。あいにくの小雨(こさめ)で女の子数人が傘を差しながらエサをあげていたりなんかする。

じつはここは公園なのです。大田黒公園というところで公園フリークの私は前にも一度来たことがあって今回2度目なのでした。前に来た時は確かもっとたくさん鯉が泳いでいたような気がして、しかもものすごく綺麗な柄(がら)で池のほとりにある案内板を見ると新潟の小千谷(おじや)地方の鯉だと書いてあったような気がします。小千谷(おじや)といえば錦鯉の里なので、本場の錦鯉はこんなに綺麗なんだ!と感動した思い出があって、久しぶりに見た鯉は、前に比べて余り感動しなかったのですがその大きさに多少今回も驚いたのでした。

そして一番メインの屋敷に向かうとなんと閉鎖されている!なになにコロナのおかげで換気ができず、当分は閉めると書いてある。

せっかくこの寒い雨の中、立ち寄ったのに残念!なにを今回このブログで紹介したかったのかと言うと、この大田黒公園というのは大田黒さんという人が亡くなってその敷地を遺言(ゆいごん)にそって公園にしたという他の公園にはない独特の事情があったりなんかしてユニークなのですが、この大田黒さん大正時代にクラシック音楽の作曲家のドビュッシーやストラヴィンスキーをはじめて日本に紹介した人で有名になったらしく、ドビュッシー本人が弾いたのかどうかはわかりませんがそのピアノがこの館(やかた)の中に飾られていて、たしかそうした歴史上のモノクロ写真と説明文が何枚か貼ってあったと記憶していて、それを紹介してみたかったのです。

大田黒公園はいつも晴れの日に荻窪公民館に自転車でいく通り道にあるところで、そんな音楽関係の人が作った公園とはつゆ知らず前に一度寄ってみたのでした。この館(やかた)に入ってはじめて事情がのみ込めて、ドビュッシーやストラヴィンスキーと自分がこんな身近なところで接点があることに驚いて嬉(うれ)しくもあったのであります。今回思い出して、このブログで取り上げてみようと久しぶりに寄ってみたのでした。

クラシック音楽というと高尚(こうしょう)な敷居(しきい)の高い音楽というイメージがありますが、この大田黒さんの敷地跡(しきちあと)の公園の広さからしても、ものすごい大金持ちだったであろうことも容易に推測され、大田黒さんはイギリスに音楽留学もしているのですが、当時はこうした大金持ちの人たちしかクラシック音楽を聴く機会もなかったのだろうなと思ったりもするのです。

ただ100年経(た)った現在、私のような貧乏な人間でも興味さえあれば多少のお金さえ払えばいろいろな音楽を聴けるようになっていたりもして、この時代に生まれて来てやれやれ良かったと思うのでした。

音楽的にはドビュッシーやストラヴィンスキーはジャズの源流になっていると言われていて、そうしたジャズの影響下の中で育っている私としてはこうした歴史上の大家の作曲家とこんな現実の街中で接点があろうとは思ってもみなかったのであります。

譜面の読めない私がドビュッシーやストラヴィンスキーを語る資格など無いのでしょうが、どちらの音楽も大好きで、ドビュッシーは確か”イベリア”という交響曲があってその曲を聴くと、何か祭(まつり)が始まる前のそわそわした街の高揚感みたいなものが感じられて、今住んでる街も1年に1回大規模な祭りがあるのですが、自分は祭りそのものより始まる前のざわざわした落ち着きのない通りの雰囲気を眺めている方が好きで、そうした風景に出くわすとドビュッシーを思い出すのでした。ストラヴィンスキーの方は有名なバレエ音楽”春の祭典”は何度も聴いていますし、”春の祭典”を音楽的に分析したクラシック音楽雑誌の特集号をはじめて買ったりなんかもしました。

二人の魅力はバッハやベートーベンといった白人の王道音楽と違って、どこかにアジア人の私にもわかる有色人種の色彩があるような気がします。それが後々(のちのち)アメリカ大陸などに渡ってジャズとして花開いて行ったのかもしれません。私が最(もっと)も尊敬する日本の音楽家の故(こ)武満徹さんもドビュッシーに1番影響を受けているみたいで、そんな関係で今回、大田黒公園を紹介してみたのでした。

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アルバム「月」ダイジェスト

高円寺ルネッサンス

東京阿佐ヶ谷のヴィオロンというクラシック喫茶に毎週土曜夕方通っていることは前にも述べましたが、実はもう1軒、隣街(となりまち)の高円寺にもクラシック音楽を聴かせる喫茶店があって、そこには大体、日曜日午後昼下がりに行くことが多い。

ルネッサンスの看板

その名もルネッサンス。ヴィオロンよりも先に知ったのはこちらのお店で、最初に入った時はこんなお店があったのかと驚いたものでした。ヴィオロンとも知り合いのようで、後で知ったのですが中野で「クラシック」という名の喫茶店だったのがオーナーの美作さんという方が亡くなられ、それで音響機材をそのまま移す形で高円寺に引っ越して来たらしく、その美作さんという方は画家でもあり、美作さんの描いた絵がヴィオロンにもルネッサンスにも所せましと飾られていて、ヴィオロンのマスターも元々は「クラシック」のお客さんだったと何かに書いてあったかと思います。

ヴィオロンは店内禁煙なのですが、ルネッサンスは喫煙可で中で結構タバコをスパスパ吸っている人がいっぱいいて空気が残念ながら悪くて、それでヴィオロンのようにいつも行かないだけで、禁煙であればたぶん毎週行ってます。愛煙家でクラシック音楽好きな方は一度行ってみるといいかもしれません。

肝心な音はヴィオロンとは微妙に違っていまして、ヴィオロンの方は大がかりな音響システムで高、中、低音バランスがよく取れているのですが、ルネッサンスの方は基本左、右のスピーカーだけで鳴らしていて(最近はスピーカーの数がなんだか増えてるような気がするが)、その音波が低い天井(てんじょう)づたいに圧縮されて横に流れてくるような感じで、ルネッサンスの音を聴いてはじめて音楽というのは音の波で形成されているのだと感じたほどなんともいえない味わいがあります。

ルネッサンス店内 一番奥、絵の下にスピーカーが置いてある

流している音楽の方もヴィオロンとは多少違っていて、ヴィオロンはバッハ、モーツァルト、ベートーベンの古典クラシックを中心にレコードをかけていますが、ルネッサンスの方は結構危ないクラシックと言おうか、ドビュッシーから現代音楽まであまり型にはまってないようなものも多くかかってます。

働いている女の子が二人いて、かけている音楽を聴いていると片方は古典王道クラシック、もう片方が現代音楽好きの趣向があるような気がします。実は1回だけこのお店でリクエストしたことがあって、その時はストラヴィンスキーの「春の祭典」をかけてもらいました。

クラシック音楽好きの人にとってみればルネッサンスももうみんな知ってるんでしょうけど、知らない方は一度行ってみるといいですよ。音だけとればルネッサンスの音にはヴィオロンと違う響きがあります。音楽配信

風景のある音楽

「音楽のある風景」という通販CDのテレビショッピング番組があるらしい・・・。yahooで検索窓に”音楽”と入れたら5、6番目に「音楽のある風景」と出てきた。有名曲をBGMにして風景動画を作成してるということなのだろうか?2002年にスタートしているというからかれこれもう20年近く、需要があって続いているということなのだろうな。。。

この言葉とは逆で、昔ライブに来てくれた人からYUKIOさんの

音楽を聴くと風景が見えるようだ

と何度か言われたことがある「風景のある音楽」ということなのだろうか?

「音楽のある風景」、「風景のある音楽」。どちらも何か抽象的だなぁ。言い方を変えれば芸術的とも云えるかもしれない。エヘン。

自分の曲を聴いて風景が見えると云われるのは悪い気がしないが、なにか良い気もしない。音楽はあくまで音楽であって、絵画じゃないんだからなぁ。

ドビュッシーの音楽も何か絵画的だと聞いたことがある。それが印象派ということなのだろうか?クラシック音楽の世界は聴くだけで理論、見識等なにも知らないので語っても仕方がない。

自分の中では曲をつくった時、特に歌詞をつくる時に自分の見た景色を描写をしようとすることはよくある。だけど自分だけの景色なのでそれが他人に伝わるとは余り思ってなくて、少しでも伝わったとすれば歌手として本望でありうれしいのだけど、なにかどこか誤解しているんじゃなかろうか?という気もしてくるのである。

「風景のある音楽」は微妙だ。

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