ご無沙汰(ぶさた)しております。1週間以上このブログをほったらかしにして何をしていたかを申し上げなければなりません。

コロナ騒動が始まってからというもの、家でまず録音してあった昔のボツにしたあるいは歳をとってから創った曲のミックス・マスタリング作業をしていました。何十曲かあって結構膨大な作業なのですが、それを終了した後は今度は若い頃ギターとピアノ弾き語りでしか演奏してなかった曲、25~26曲のバンド化作業に取りかかりドラム、ベースのリズム入れを終了し必要な鍵盤の音をmidi接続で入れて録音し、今はギターをああでもないこうでもないとどのように入れるか模索していたのでした。

一方ここ最近の、、、最近といっても10年くらいなのですが、、、アイデアが浮かんだ曲をまとめる作業も毎週末に公民館のピアノ室に通ったりなんかしてかなり進んで来た実感があります。

お金にならない作業をこれだけ時間をかけてやっている大人もなかなかいないだろうと思ってしまうのですが自分にとってはこれでいいのです。悔いはありません。

コロナ禍前の1年前まではここまで作業がはかどるとは思ってもみませんでした。たぶんやり残した作業がたくさんある内に死んでいくのだろうと考えていたのですが、人生とはわからないもので意外に自分が思い描いた音楽をすべて脳ミソから解き放って表(おもて)に出してから死んでいける可能性も出てきたような気がします。(笑)

ライブをやらなくなったり、井の頭公園で唄わなくなったりしたことも大きいのかもしれません。ライブ前何日かは練習で時間をとられたり、井の頭公園で唄えば休日が丸1日つぶれたりする感じだったのですが、今は家の中で唄の創作作業に何も考えずに没頭できるのです。

唄を創作するにはまずアイデアが必要で、アイデアが思い浮かんだ後それに従って肉付け作業に移って行くのですが、アイデアが浮かんだ時点から冷酷にと言うかアッと言う間に時間が過ぎ去っていくのです。アイデアだけが頭の中にあって肉付け作業のどこかが間違っていると頓挫なんかしたりして上手くいかないことなどしょっちゅうでアイデアだけが頭の中に溜まって行ったりして、時間が頭の中でずれてしまっている感覚、、、それがこれまでの自分のような気がします。

できれば唄が思いつけばその時点ですべて創りつくしたいのです。別にたくさんの曲を溜めて後で小出しにするつもりなんかは無くて、そうした状況が整わないので仕方がないと思っていたのですが、コロナ禍の中で思いもよらない自由になる時間ができて自分の唄のアイデアの数分(かずぶん)だけの現実の肉付け作業も追いつき始めた状況になって来ました。

なんとかこの調子で数年の内にすべての曲をまとめ上げたいと思っているのですが、そんな簡単にはいかない。時間はやはりかかる。しかしながら少しは光が見えて来た感じもしないでもありません。頭の中にあるすべての唄を外に解き放ってみたい!現実はどうなるかわかりませんが、何にも無くなった頭の中には次(つぎ)どんな唄が生まれて来るのでしょうか?その唄を生きている間(あいだ)に自分は目にすることができるのでしょうか?

このブログを書いている間も常に時間は過ぎ去って行きます。人間は未来を見ることはできないし過去を懐かしむだけです。今を生きるしかありません。

こう考えると、”今”ほど不思議なものは無いのかもしれませんネ。(笑)

音楽配信 

「今」 月6曲目 聴いてみませんか?

Yukio Music Lives Matter

ひょんなことからある雑誌の誌面を読んだところ、アメリカの黒人差別の”Black lives matter”について書いてあった。そう言えば最近のニュースは日本ではコロナ一辺倒なのだがアメリカだとコロナ禍の下で黒人が白人警官に足で首を押し付けられ死んでしまい、怒った黒人たちが各地でデモを行ってそれが黒人以外の人種も巻き込んでアメリカ全土に広がっていると連日報道されていた。

その雑誌の記事はその運動に連動するように書かれていて、まず”Black lives matter”という英語の中の”matter”という単語が日本人は苦手なのだと言う。確かに自分も”Black lives matter”と言われても頭が悪いので”黒人もこの世に必要なんだ~!”くらいに勝手に解釈していたのだが、記事では”matter”は主に疑問、否定文で使われて、肯定文だと”どうでもよくない”を二重否定するのが適切な訳になるらしい。”What’s the matter with you?”と中学校の時に習ったような思い出があるのだが、どういう意味だったかな?とすっかり忘れている。

“Black lives matter”で検索してみるとウィキペディア(Wikipedia)では

ブラック・ライヴズ・マター: Black Lives Matter、通称「BLM[1])は、アフリカ系アメリカ人に対する警察の残虐行為に抗議して、非暴力的な市民的不服従を唱えるアメリカの組織的な運動である[2]

とのこと。下の方にスクロールすると「黒人の命も大切だ」という日本語訳に対して異論・批判が生じたそうで、なんだかいろいろな訳され方がされているようでやはり”matter”は日本人には馴染めない英単語なのだと推測できる。

その”matter”の問題は英語の先生に任せるとして(笑)、このブログで取り上げたいと思ったことは、その記事の中でその人がヨーロッパやアメリカに行くと東洋人の自分にもちょっとした差別があると記されている事だった。

宿料金を倍の料金で請求されたり、レストランに行くとトイレの側(そば)に席を回されたり、極め付きは汽車に乗っていると混んでいるにもかかわらず自分の隣の席だけは誰も座らず空いていることに気づき、この時ほど東洋人を意識したことはないと書いてあった。過酷な黒人差別に比べればほんの序の口、真似ごとでしかないが、静かな差別、無言の差別とのこと。

この文章を読んだ時、しかしながらこれって別にヨーロッパやアメリカに行かずとも日本国内でも目を凝らせばどこにでもある光景なんじゃないかと思ってしまったのであった。さすがに宿料金をぼって来る宿は日本では見かけないが、トイレの近くに席を回されたり、電車の隣の席に誰も座らないというのは要は村八分(むらはちぶ:仲間外れ)にされたりすることはどこの世の中にもごまんと溢れていて、この人日本ではそうした経験をしたことが無かったのか~!?随分、優遇されたいい生活を送って来たのだろうなと思ってしまうのである。

自分なんかはオリジナルの音楽をやっているので、こうした静かな差別、無言の差別を死ぬほど受けて来た。直近では井の頭公園でベンチに座っている人に向けて唄うのだが、唄い出すと徐々に徐々にベンチから人が消えていき、誰もいなくなったベンチに向かって唄うのである。他のベンチは埋まっている。有名なクラシック音楽を演奏するバイオリニストにはおひねりが入っていたりする。お昼で弁当を食べるため唄うのを止めるとしばらくするとまたベンチに人が戻って来たりする。

ライブ前には必ず自分の音楽を売るためのビラ(今で言うフライヤー)を配るようにしている。頭を下げて「捨ててもらって構わないので一応もらってくれませんか?」と断って差し出すのだが、もらってくれない奴もたまにいるし、受け取ってもらったとしても持ち帰らずテーブルの上に置きっぱなしにしてあってお店から出された酒のグラスの下で水浸しになってインクが滲(にじ)んだビラをライブが終わった後お店の人に悪いので気づいた時には必ず自分で回収したりもする。せめて家に持ち帰ってから捨ててくれよと言いたくもなる。

素人(しろうと)のくせに自分自身で音楽を売っているという態度が癪(しゃく)に触るのだろうか、自分が唄っている前で露骨に会話されてお前の唄など聴いちゃいないよという態度をとられることだってしょっちゅうなのだが、自分で「売ってます。」とまずハッキリ言わない限りは鼻で笑われようが村八分にされようが世界は開けて来ないと思っている。最低限、声を出し主張しない限りは、それは人種関係なく相手はわかってくれないに決まっている。CDをかんばって作ってもどうせ売れないと諦(あき)らめてギターケースにしまい込んだままライブをやって、有名ライブハウスに自腹を削って出てたりすることを自慢していても仕方がないじゃないか。(笑)そういう人間をいっぱい見て来た。

要はオマエの音楽が他人(ひと)を惹(ひ)き付けないだけだろうと言われてしまいそうだが、ただそうしたセリフを吐く人間に限ってこうした人間達なのだ。認められた既存の世の中の価値を常識として集団になり、そこからはみ出そうとする少数派を排除しようとする。一見、今風の自由気ままに生きているように見えるのだが、肩書が必要で仲間意識が強い。仲間外れは、いじめた側はいじめた意識すらないのだろうが、いじめられた側はずっとその事を憶(おぼ)えていたりもする。

ブルースやジャズなど黒人音楽には若い頃から多大な影響を受けて来た。この雑誌の記事を書いていた人もジャズ評論家で、ジャズ愛好家ほど黒人を敬(うやま)う人種はいないだろうと吠えていた。(笑)吠えている割には静かな差別や無言の差別を気にしていて、この日本という同一民族の差別が見えにくい社会に暮らしている中で日本人ぽいと言えばもっとも日本人ぽいような気がしたのだった。(笑)

差別はどこにでも存在する。黒人だけじゃなく私でだって闘っている

Yukio Music Lives Matter

音楽配信

徒然(つれづれ)なるままに

ご無沙汰しております。東京の緊急事態宣言は今月末で解除されるのでしょうか?この調子で行くと多分解除されるのだろうな。なんだか情報操作されてる気がしないでもないですがずっと家に閉じこもってばかりいても体によくなさそうなのでとりあえずは良かった、良かった。

さて、家でこのブログも書かずに何をやっていたかと言えば、昔つくったオリジナルのギター、ピアノ弾き語り曲にリズムトラックを作成していたのでした。その数27曲。ようやくすべての曲にリズムを入れ終えたばかりで、気が抜けたと言おうか、少し息抜きをしたいと言おうか、久しぶりにブログでも書くかと思いパソコンに向かった次第であります。この力のない文章、、、何を書こう?徒然(つれづれ)なるままに、、、話題がコロナ以外に何かあるかな?

・・・何も無さそうなので、今回はここで筆(ふで)をおこうと思います。ご機嫌よう。

音楽配信中です。聴いてみませんか?

太陽ダイジェスト

音楽の血

緊急事態宣言の1ヶ月の延長が決まった今年のGW、みなさんお家(うち)で何をなされてるのでしょうか?最近の報道を見てるとどうやらこの1、2ヶ月外出を控えればコロナも収束(しゅうそく)していくというわけではなさそうで、今後何年も付き合っていかなければならないことになりそうな論調に変わってきた。

ソーシャルディスタンス(社会的距離)を守って学校や会社に行く世界になって行くのだろうか?そんなこと言ってると集会なんてできないので、スポーツとかコンサートとか政治の街頭演説だってできないではないか?会社だって行く必要が無いのであればどんどん独立していく奴も出て来ると思う。誰もが想像できないような末恐ろしい世の中になって行くのかもしれない。

そんなことをぼんやり想像してみたが、、、考えたところで今現在、何か自分の行動が当面変わるわけでもなく自分は自分の音楽の道を行くだけである。今回は自分がこれまで聴いていいなと思ったり、影響を受けてきたミュージシャン(音楽家)のそのいいと感じた共通点について語ってみようと思う。音楽は主観だと思うのであくまで私の独断で語るものだ。

若い頃から色々な音楽を聴いて来た。ロックからブラックミュージックまで。歳と共にそれがジャズやラテン音楽になり、とうとう現代音楽に向かい、最近はもはやクラシック喫茶でバッハ、モーツァルトやベートーベンといった昔のドイツ音楽ばかり聴く生活になってしまった。原点回帰してるとも言える。(笑)

技巧的なものは全く別々のジャンルに当てはまるものでまちまちなのだが、自分の心の中ではこれらの音楽はすべて統一されているのである。それは音楽というのは最終的には血を感じさせないといけないということだ。

たぶん世の中には音楽を上手く奏(かな)でる人間は世界中にたくさんいると思う。しかし上手いだけや格好いいだけでは自分の心は動かない、、、そこにその人の血を感じさせないと駄目なのだ。血を感じさせると言おうか、その音楽の背後にどうしても血が漂って来てしまうと表現した方が正しいのかもしれない。

抽象的で曖昧な言い方ではなくて、ではその血と言うのは一体何かと言えば、具体的に言えばその人の歴史と地理でなければいけない。私にとっていい音楽とは、その人の親がどういう親であったり、地球上のどこら辺の街で育ったり、どのような社会環境であったりしたかをリアルに感じさせるものなのだ。

黒人のブルースにはその背後にあった奴隷制といった歴史を抜きには語れないし、アントニオ・カルロス・ジョビン(ボサノバの創始者)やピアソラ(アルゼンチンタンゴの神様)の音楽は私のような北半球で育った人間にしてみれば重力が逆になったようなリズムに感じられてしまい、地理的に南半球でしか生まれないような音楽に思えてしまう。そこに時空を超えて自分の知らない世界が広がっているような気がしてそうした音楽に夢中になってしまうのである。だから日本人がただ単に海の向こうのクラシックやジャズを演奏してみても、それは上手いのはよく分かるのだが、何を伝えたいのかどうもその意義がわからないのだ。

知り合いのご子息がお医者さんの卵らしく、まさかこの時期感染症の専門医になるのか?あるいは医者になったところでイタリアでは150人以上の医者が死んでますよ!と先日夜連絡をとる機会があり、酔っぱらった勢いで脅しのメールを送ったのだが、”外科医になります。”と素っ気ない返事が返ってきた。(笑)

このイタリア人医師が150人以上亡くなってしまった話とかを聞くと私の中では音楽の血を感じてしまうのだった。イタリアの人たちと言えばオペラを歌ったり、サッカーに熱狂したりなんかしてもの凄く感情的で情にもろいそんなイメージがあったりする。医療の現場でそんな情をはさむ余地などないのだろうが、ニュースに出て来るイタリアの医師は診療が終わった後に”医療崩壊が起きている。助けが必要だ。”とガサツにマスクを取り外して訴えていたりしたが、日本ではこんな適当なマスクの取り方などは多分ありえないだろう。

日本はしっかり情報が共有され管理されていて、医師も感染しているがイタリアほどの数でもない。しかし今日の新聞では東京ではコロナ陽性の可能性がある急患を受け入れる病院がなく患者は4時間以上たらい回しにされた事例が頻発していると書いてあった。感染症のことを知れば知るほどうかつに患者を診ると危険なのはもはや素人の自分でもわかる。自分がもし医師であるなら疑いのある患者を診たくないというのが誰もの本音だろう。

しかし、田舎にたった一人しかいないお医者さんが、夜中に門を叩かれ”ウチの爺(じい)さんが咳(せき)が止まらないんだ、苦しがっていて、コロナかもしれないがどうか診てやって下さい~!!”と涙目で懇願(こんがん)されたとすれば、そのお医者さんは門を開くのだろうか?しかもその爺さんというのはいつもピザが余ったらお裾(すそ)分けしてくれて世間話をしたよく知っているピッコロ爺さんだったならば・・・。

平時であれば躊躇(ちゅうちょ)なく誰でも診察に応じるだろう。しかし今回は感染する可能性はかなり高そうだ・・・、どうしよう?決断しなければいけない。アナタならどうしますか?自分であれば・・・自分であれば・・・多分できない気がする。しかし、

イタリア人の医師は診るはずである。医師である前に情が通った一人の人間であるからだ。それが今回語りたかった音楽の血でもある。音楽配信中