誰にも相手にされず、これまでに4つの作品をつくって来た。古い順に並べて「YUKIO」、「YUKIO PIANO」、「COCOLO」、「太陽」。前2つは最もシンプルにギターとピアノの弾き語り、あとの2つはリズムも入れて楽器演奏からミックス、マスタリングまですべて自分でやった複雑な一人バンド形態になっている。
対照的なのだが、それだけではなくて実はこの最初2つと後2つの作品群では決定的な違いが自分の中ではあったりする。
それは唄の創り方がメロディーが最初に閃(ひらめ)いたのか、言葉が最初にあったのかの違いである。メロディーが先か、言葉が先かで決定的に唄の本質が違ってくるのだ。
「YUKIO」、「YUKIO PIANO」の弾き語り作品の方は言葉が先にあって、「COCOLO」、「太陽」のバンド形態2つはメロディーが先になっている。
弾き語り2つは言葉がやはり最初に聴こえて来る。バンド形態の方は歌詞にも気をつかっているのだが、よく聴かないと何を唄っているのかよくわからない。メロディーが先にあって後から言葉を足したからだ。
なぜこのような違いがあるかと言うと自分でもわからない。ただ「cocolo」という曲のメロディーが閃(ひらめ)いて以来ずっと私の唄はメロディーが先にできて来て歌詞を後からつける形になっている。
弾き語り2つは日本語でしか唄えない、あるいは成立しない唄で、バンド形態2つは日本語で唄ってはいるが、別に日本語でなく英語で唄ってもおかしくないような気もする。
どちらが良いのかわからないが、これらすべての作品は私の中から流れ落ちてきたものなのですべてを引き受るしか説明がつかない。
誰も聴いてくれない自分の作品を分析しても仕方がなのだが、メロディーが先か、言葉が先かで自分の中ではここにもの凄い断層があるのだ。ライブではなるべく混ぜないように気を使ったりもするのだが、たくさん唄ったりしなければいけない場合など致し方なく混ぜたりしたりもする。
自分の気持ちの中では昔のように先に言葉が出てきてもらいたいと実は思っていて何とかならないかと考えるのだが、考えて唄ができるものでもなんでもなく今、現在もこのような状態なのである。しかしながら、私の想いとしては自分が普段使っている日本語という言葉のイントネーションがやはりその曲のメロディーに影響を及ぼすのが自然のような気がするのだ。
欧米の音楽ばかりを聴き過ぎたのかもしれない。確かに日本語で唄われた曲なんて大人になってほとんど聴いて来ていない。しかし実は自分は日本の民謡でしか踊れないということも知っている。
欧米の音楽ばかりが情報として入ってきて価値のあるものだと思われがちだが、中国の音楽も聴いてみたい。特に中国の結婚式でみなさんお酒を飲みながらどんな唄を唄っているのだろうか?10億人もいるのだから人それぞれ色々な唄を酔っぱらいながら唄っているのだろうと想像すると楽しくてしようがない。日本にさえ地方地方に様々な民謡があるのだから、中国行くともっと百花繚乱の民謡が聴けるような気がするのだ。
話がそれたが、私のこの4つの作品試しに聴いてみませんか?行きつく所はここなのです。(笑)音楽配信