熱帯夜

今日も暑い・・・、暑い日が続く。最近はもう朝まで一晩中クーラーをつけっぱなしにしていて、こんなことは今まで無かったことのように思う。最近の夏の暑さは昔とは違って何か狂気が混じっていると言おうか、子供の頃の夏も暑かったが田舎に住んでいたせいかどこかのどかだった。大人になってお盆に田舎から戻ってくる時、東京駅で新幹線を降りた途端、湿気を含んだムッとした空気がまとわりついてきて、これが※ヒートアイランド現象なのかな?と思ったりもしているうちに中央線に乗り換えると車内は別世界のようにすごく涼し気なクーラーが効(き)いていて、乗車してくる女性たちの田舎では見ないようなお洒落で色鮮やかな半袖のブラウス姿なんかを眺めていると、あらためて自分が大都会に住んでるのだなと実感するのであった。

※ヒートアイランド現象 都市の気温が周囲よりも高くなる現象のこと

昔はお盆に田舎に帰るとかつてはクーラーが好きか?嫌いか?で会話がはずんだりもしたものだが、最近は田舎、都会あるいは好きも嫌いも関係なく否応が無しにクーラーをつけないと生きていけない暑さになってきているような気がする。現に今日も朝からクーラーをつけっぱなしだ。

しかしながら、こんな私でも田舎から出てきた若い頃はクーラーどころか扇風機も持たない生活を夏に何年も過ごしているのだった。(笑)ついでに言うとストーブすらない冬も何年もあった。(笑)貧乏学生だったのである。(笑)

扇風機もない熱帯夜を安アパートの中どう暮らすのか?窓も開けっぱなしにしても寝れるわけがなくて、涼みに外の公園に行くのであった。真夜中の公園は当然真っ暗で外灯の明りだけが頼りで、明りの周りには蛾(が)やカナブンが飛んでいた。その当時そんな都会に住んでいたわけではなかったので小さな公園にはカップルがイチャイチャしていることもなく巡回してくるお巡りさんに注意されることもなかった。一人ベンチに座って目の前にある暗闇を眺めたのだった。

ある夏の真夜中、そうすると何かそこに生き物の気配が感じられた。目を凝らすと黄色や赤の縞(しま)模様の熱帯魚が現れ始めた・・・。トロピカルな魚だ。目の前をゆっくりと泳いで行く。海やプールで水中に潜り込んだ時に聞こえる”ブク、ブク、ブク・・・”という音が、そう確か夏休み少年の頃、床屋さんで髪を切るのに待たされて漫画を読んでいた時に横にあった水槽の音が聞こえる。

そしてどこからか”チーン”という音がぬるい空気の風に乗って鳴っている。なんだろうこの音?静かな音・・・。仏壇の音だ。仏壇の”チーン”する音だ。闇の先で誰かが”チーン”してる。風鈴の音かもしれない。合わせて唄ってみよう・・・。

水の中でもないのに、よどんだ空気の中を綺麗な魚が泳いでいる。その内消えた。

若い頃の儚(はかな)い夢。真夏の「熱帯夜」。作品「月」1曲目に入ってます。聴いてみませんか?音楽配信中

視覚イメージがちょっと違っていますが・・・、熱帯夜ダイジェスト

夕立交響曲(シンフォニー)

外が暗くなって来た。今日も夕立があるのかな?蝉の鳴き声が聞こえる。仕事をしようにも周りは結構もうお盆休みで仕事にならない。ただコロナ騒動関係なく最近はお盆にも仕事をしてる人もいっぱいいて、と言うか今年は特に会社に出勤しなくていいのでみんなメールのやりとりで、この人どこから私のメールを見て返信して来るのだろうな?とフト想像してしまうのであった。

今日は8月13日、田舎に帰ることもできず近所の公園に行った散歩の途中で私のメールを見て、”お世話になります。・・・了解しました。”とかなんとかかしこまったメールを返信しつつも、コンビニでカップラーメンを買っていたり、家で掃除か洗濯なんかしていたりするのかもしれない。

更に外が暗くなって来た。パソコンのキーボードが打てない。部屋の明りをつけよう。西の向こうの空の方角が”ゴロゴロ”いっている、先ほどは気配しかなかったのに今はもう雷(カミナリ)の音がはっきりと聞こえる。洗濯物干してたかな?雨が落ちてこない内に取りに行かないと・・・

窓を開けると、向こうの空に稲妻(イナズマ)が走り!!後から”ゴロゴロ”と音が追いかけて来た。幸いにも洗濯物は無かった。雨がとうとう来そうだ、落雷の音と共に。さあここからが夕立交響曲のはじまりだ!!雨がバシャバシャと屋根や道路に打ち付けはじめる。雷(カミナリ)の音はまだ少し遠いぞ~。ここからが盛り上がるんだ!と思いきや私の期待とは裏腹に雨に勢いが無い。段々小降りになって来た。

なんだか盛り上がりそうで盛り上がらない・・・。

雷(カミナリ)の音が遠のいて行く。西の空が明るくなって来た。部屋の明りを消す。どうも物足りない・・・。そう思いきや雨音がまた多少激しく屋根をたたき始めた。

どっちなんだ?はっきりしろ!

しかし西の空はもう明るい。太陽が照り付け始めている。閉めた窓越しに外を見るともう雨は止(や)んでいた。蝉の鳴き声がまた戻って来た。コロナ禍も忘れてしまいそうないつもと変わらぬ8月の午後。

部屋のエアコンの音だけが何も無かったかのように涼し気に鳴っている。

音楽配信中!聴いてみませんか?

帰省(オヤジの想い) よくある男親と男の子の葛藤(かっとう)を唄いました。

Yukio Music Lives Matter

ひょんなことからある雑誌の誌面を読んだところ、アメリカの黒人差別の”Black lives matter”について書いてあった。そう言えば最近のニュースは日本ではコロナ一辺倒なのだがアメリカだとコロナ禍の下で黒人が白人警官に足で首を押し付けられ死んでしまい、怒った黒人たちが各地でデモを行ってそれが黒人以外の人種も巻き込んでアメリカ全土に広がっていると連日報道されていた。

その雑誌の記事はその運動に連動するように書かれていて、まず”Black lives matter”という英語の中の”matter”という単語が日本人は苦手なのだと言う。確かに自分も”Black lives matter”と言われても頭が悪いので”黒人もこの世に必要なんだ~!”くらいに勝手に解釈していたのだが、記事では”matter”は主に疑問、否定文で使われて、肯定文だと”どうでもよくない”を二重否定するのが適切な訳になるらしい。”What’s the matter with you?”と中学校の時に習ったような思い出があるのだが、どういう意味だったかな?とすっかり忘れている。

“Black lives matter”で検索してみるとウィキペディア(Wikipedia)では

ブラック・ライヴズ・マター: Black Lives Matter、通称「BLM[1])は、アフリカ系アメリカ人に対する警察の残虐行為に抗議して、非暴力的な市民的不服従を唱えるアメリカの組織的な運動である[2]

とのこと。下の方にスクロールすると「黒人の命も大切だ」という日本語訳に対して異論・批判が生じたそうで、なんだかいろいろな訳され方がされているようでやはり”matter”は日本人には馴染めない英単語なのだと推測できる。

その”matter”の問題は英語の先生に任せるとして(笑)、このブログで取り上げたいと思ったことは、その記事の中でその人がヨーロッパやアメリカに行くと東洋人の自分にもちょっとした差別があると記されている事だった。

宿料金を倍の料金で請求されたり、レストランに行くとトイレの側(そば)に席を回されたり、極め付きは汽車に乗っていると混んでいるにもかかわらず自分の隣の席だけは誰も座らず空いていることに気づき、この時ほど東洋人を意識したことはないと書いてあった。過酷な黒人差別に比べればほんの序の口、真似ごとでしかないが、静かな差別、無言の差別とのこと。

この文章を読んだ時、しかしながらこれって別にヨーロッパやアメリカに行かずとも日本国内でも目を凝らせばどこにでもある光景なんじゃないかと思ってしまったのであった。さすがに宿料金をぼって来る宿は日本では見かけないが、トイレの近くに席を回されたり、電車の隣の席に誰も座らないというのは要は村八分(むらはちぶ:仲間外れ)にされたりすることはどこの世の中にもごまんと溢れていて、この人日本ではそうした経験をしたことが無かったのか~!?随分、優遇されたいい生活を送って来たのだろうなと思ってしまうのである。

自分なんかはオリジナルの音楽をやっているので、こうした静かな差別、無言の差別を死ぬほど受けて来た。直近では井の頭公園でベンチに座っている人に向けて唄うのだが、唄い出すと徐々に徐々にベンチから人が消えていき、誰もいなくなったベンチに向かって唄うのである。他のベンチは埋まっている。有名なクラシック音楽を演奏するバイオリニストにはおひねりが入っていたりする。お昼で弁当を食べるため唄うのを止めるとしばらくするとまたベンチに人が戻って来たりする。

ライブ前には必ず自分の音楽を売るためのビラ(今で言うフライヤー)を配るようにしている。頭を下げて「捨ててもらって構わないので一応もらってくれませんか?」と断って差し出すのだが、もらってくれない奴もたまにいるし、受け取ってもらったとしても持ち帰らずテーブルの上に置きっぱなしにしてあってお店から出された酒のグラスの下で水浸しになってインクが滲(にじ)んだビラをライブが終わった後お店の人に悪いので気づいた時には必ず自分で回収したりもする。せめて家に持ち帰ってから捨ててくれよと言いたくもなる。

素人(しろうと)のくせに自分自身で音楽を売っているという態度が癪(しゃく)に触るのだろうか、自分が唄っている前で露骨に会話されてお前の唄など聴いちゃいないよという態度をとられることだってしょっちゅうなのだが、自分で「売ってます。」とまずハッキリ言わない限りは鼻で笑われようが村八分にされようが世界は開けて来ないと思っている。最低限、声を出し主張しない限りは、それは人種関係なく相手はわかってくれないに決まっている。CDをかんばって作ってもどうせ売れないと諦(あき)らめてギターケースにしまい込んだままライブをやって、有名ライブハウスに自腹を削って出てたりすることを自慢していても仕方がないじゃないか。(笑)そういう人間をいっぱい見て来た。

要はオマエの音楽が他人(ひと)を惹(ひ)き付けないだけだろうと言われてしまいそうだが、ただそうしたセリフを吐く人間に限ってこうした人間達なのだ。認められた既存の世の中の価値を常識として集団になり、そこからはみ出そうとする少数派を排除しようとする。一見、今風の自由気ままに生きているように見えるのだが、肩書が必要で仲間意識が強い。仲間外れは、いじめた側はいじめた意識すらないのだろうが、いじめられた側はずっとその事を憶(おぼ)えていたりもする。

ブルースやジャズなど黒人音楽には若い頃から多大な影響を受けて来た。この雑誌の記事を書いていた人もジャズ評論家で、ジャズ愛好家ほど黒人を敬(うやま)う人種はいないだろうと吠えていた。(笑)吠えている割には静かな差別や無言の差別を気にしていて、この日本という同一民族の差別が見えにくい社会に暮らしている中で日本人ぽいと言えばもっとも日本人ぽいような気がしたのだった。(笑)

差別はどこにでも存在する。黒人だけじゃなく私でだって闘っている

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