ともだちがほしいよ

突然ですが、今回「ともだちがほしいよ」という曲をリリースすることになりました。「月」というアルバム作品の中にも入っている曲で、そちらは「友達が欲しいよ」と曲名に漢字が入っていたりなんかします。なぜそうしたか?その理由なんかも含めて今回は語って行こうかなと思います。

1年前に「月」というアルバム作品とその中に入っている「藤の花」という1曲をリリースしたのですが、「月」はダウンロードしかできない形になっていて、こちらは私自身が音楽配信業者にお金を払って配信しています。「藤の花」の方は配信業者の方が1年に1回、私みたいな独立系ミュージシャンを配信に誘い込み、囲い込むために、1曲だけに限り無料サービスをやるので、それを利用してspotifyやAPPLE MUSIC等で無料で聴けるストリーミングも含めて配信したのですが、1年間の期限付きとなっていまして、「藤の花」は今月1月をもって配信は終了するのです。その代わりと言っては何ですが、今回新しく「ともだちがほしいよ」という曲を今後1年間ストリーミング配信しようと企(たくら)んだのでした。

「藤の花」の方は、ストリーミングでは聴けなくなりますが、YouTube上の動画では全編聴けますので、ぜひそちらを見ていただいて、気に入ったら、そちらからダウンロードいかがなものでしょうか?

さて、その作品「月」第2弾ストリーミング、シングルカットとも言うべき「ともだちがほしいよ」という曲をなぜ今回、数多(あまた)ある私の曲の中から選んだのかと言いますと、、、そんなに理由は無いのですが、まず「藤の花」の時もそうだったのですが、楽曲が音楽的にそんなに難しく無いこと、そして歌詞がシンプルなことなどが挙げられます。

特に”友達が欲しいよ〜”と唄う歌詞が、”50も過ぎた親父(オヤジ)が吐(は)く台詞(セリフ)か!?”と何だか世間から白い目で見られそうな、あるいはそう言われることは無いにしろ、腹の中で蔑(さげす)まされるだろうなと容易に想像されたので、よし!では、今回この曲で行こう!と思ったのでした。(笑)

やはり、曲には違和感がないといけない。

私の曲には、結構”わかってたまるか〜!”とか、”キミたちは満員電車に乗って死んでいけばいい、、、”とか、奇をてらったつもりは無いにしろ、大手のレコード会社だけでなく世間一般からも疎(うと)まれそうな歌詞がついてる唄が少なくない。(笑)”友達が欲しいよ〜”と唄うのも、その延長線上にあるのです。

何だか世の中の当たり前だと思う常識や風潮が、若い頃から嫌でしょうがない。”友達が欲しいよ〜”とか10代の青春時代の若者ではあるまいし、大の大人(おとな)がそんな女々(めめ)しいこというものじゃ無い!今時(いまどき)の小学生だってそんなこと言わない!とお咎(とが)めを受けてしまいそうですが、そんな指摘するのは連(つる)んで団体の中でぬくぬくと生きてる人間が言う話であって、厳しい現実において大人になっても友達が欲しいものだと思ってます。

この唄は30代の前半の頃、周りはみんな会社勤めになり、お金を稼ぐ以外に人生の価値は無いかのごとく世の中の大半は動いていることに気づかされ、自分もその大きな流れに背くことなどできないと悟った時に創った曲で、当時は曲が余り面白く無いので没(ボツ)にしてしまっていたのでした。

歌詞の中には”今じゃ新聞、経済面から読み始める自分がいる・・・”と唄ったりもしているのですが、実際はそんなこともなく(笑)、子供の頃そうであったようにまずテレビ欄をチラッとチェックして、スポーツ面を結構、隅(すみ)から隅まで読んで、それから経済面を読むのでした。ただその当時、経済面を読むようになった自分がいてと言うか、経済記事に何が書いてあるのか段々わかって来て、お金儲けと言おうか世の中の仕組みに興味を持ち始めた自分のその姿が、自身でとても不思議で新鮮に感じたので、こうした歌詞を思いついたのかもしれません。

大人は打算で動きます。子供の頃はそうした大人の打算を”汚(きたな)い”や”ズルイ”と言った言葉で表現しますが、生活がかかっているのです。金を稼げない自分の子供を責任を持ってその”汚い”大人にしないといけないのです。金を稼ぐには、嫌な人間とも顔をつき合わせなければいけません。

そんな時には、大人はたぶんその相手に”友達になろうよ!”と言うに違いありません。名刺を交換して”友達になろうよ!”と言って、友達になったふりをするのです。”お前なんか嫌いだ〜!”と言って敵を作るよりも、腹の中はどう思っているのかわかりませんが、表面上は友達になっておいた方がお互いメリットがあって作業がはかどるのです。その方が手っ取り早いのです。ですので”友達が欲しいよ!”と大人は言ってはいけないのです。

そこまでわかっていて何でお前はそんな”友達が欲しいよ〜”とか青くさい、今時の打算的な小学生だって言わないようなことを唄うのかと問われると、そう唄う方が自分は幸(しあわ)せになれると思うからに他なりません。(笑)

だって嘘はつきたくないもん。

肝心なことは誰だって嘘はつきたくないですよね。今回あえて作品「月」8曲目に入っている「友達が欲しいよ」を平仮名(ひらがな)の「ともだちがほしいよ」に変えたのもこうした考え方からなのでした。まだ子供心をどこかに引きずっている自分がいるのです。たぶん子供の頃から友達がいなかったのでしょうね。(笑)

せっかく音楽配信するというので、動画も「藤の花」に続いて作ってみました。ただ部屋の中での撮影となると上半身だけのものになってしまって、前回と変わらないものになるので衣装を変えてみました。チャンチャンコ着て、腹巻き巻いて唄ってます。(笑)へ、へ、へ。オリジナルの日本語の唄をうたっているからな。ギターとベースも弾いているぞ〜。右肩の下着がズリ落ちているのはご愛嬌(あいきょう)。(笑)ぜひ見てやってください。

「ともだちがほしいよ」音楽配信中  作品「月」音楽配信中

書き忘れてましたが、この曲の音楽的なこともついでに述べておこうと思います。音楽的には何も新しいことはやってません。(笑)ですので最初、若い頃この曲を没(ボツ)にしていました。けど、自分の心の中にはずっとこの曲は残っていて、たぶんビートルズの初期の頃の曲に近いのかなと勝手に思ったりもしてます。世界のビートルズと自分の曲をとうとう重ねちゃいました。(笑)

自分の音楽はロックだという割には今までビートルズについて何も語ってきませんでしたが、ビートルズは原体験で聴いているわけではなく後追いなので何とも言いづらいと言いましょうか、一応は一通り聴いてまして結構好きなのですが、周りにいた熱狂的なファンと思われる人達とは多少距離を置いてきたような気がしないでもありません。(笑)CDも何枚か持ってまして、やはり初期の頃のシンプルなビートルズの曲が大好きで、「ラブミードゥー」とか「抱きしめたい」とか、ジョンレノンのシャウトものと言いますか、そうした曲が好きなのです。この「ともだちがほしいよ」という曲も自分の声の音域の結構ギリギリのところで唄ってたりなんかするものですから、自分でも和製ジョンレノンになった感じで、まんざらでもない顔をして唄っていたのだろうな、その時の自分の顔を鏡で見てみたかったとも思うのでした。(笑)

そしてビートルズと言えば、私にとってはあまりお金の臭いがしないバンドと言おうか、大人に利用されずに自分たち自身で考え、この大地を踏みしめたバンドというイメージがあります。日本にも次から次へと色々な人気バンドやタレントさんが出てくるのですが、みんなその背後に芸能事務所があって、お金儲けの大人の都合で動いている感じが見え隠れして、自分たちで物を考えないと言おうか、考えさせられないように洗脳されるのか、よくわかりませんが、見ていて退屈(たいくつ)なのです。エレキギターを持って格好よく弾いているのですが、全然ロックに見えない、、、。演歌歌手と何が違うのだ???洒落(しゃれ)たコード進行でキーボード弾いて喝采を集めても、後ろで大人が手を引いているだけのような気がして、どうもお金の臭いが漂って来るのを嗅(か)ぎつけてしまうのは私だけでしょうか?現実のビートルズもアイドルとしてそんな感じだったのでしょうけど、不思議と余りそうしたイメージが湧いてこないのですよね。

ジョンレノンとポールマッカートニーは、ビートルズというバンドの曲作りの仕事仲間なのでしょうけど、同時に”ともだち”だったのかもしれません。お金儲けと割り切れば世界一儲けられるバンド、ビートルズを解散させる必要はどこにも無かったのですから。そんなことより相手の音楽性が許せなくなったりしたのでしょうけど、それも”ともだち”だったからこそなのでしょうね。二人が”友達になろうよ!”と名刺交換して、効率優先の割り切った大人の関係だったならば、まず解散もなかっただろうし、それより、第一ビートルズがこれほどまで有名なバンドになることも無かったような気がします。

自分も若い頃、何度も気の合うバンド仲間を求めて、その”ともだち”を探したのですが、未(いま)だに出会えません。ただ、こればっかりは自分で努力して何かできるものでもありません。仲良かった友達と音楽リハーサルスタジオに行って、自分の音楽をグチャグチャにされてしまって深く傷ついたり、自分より音楽知識の高い人間に、こうした方が良いと言われ指示に従い、結局は自分の意図しない曲になったりして、こうじゃないだろ!と思ったことも何度もあったりして(笑)、歳をとった今、それが現実なのだと思います。それでも自分はまだ不思議とこう思うのです。ジョンとポール、2人のように

ともだちがほしいよ

と。

最後に音楽をやっている人向けにこの簡単な曲の構造を語りますと、この曲のコード進行はFとFの平行調のDmが中心になっているのですが、曲の最後そのどちらかのコードに行くところをDに行って終わってます。たぶんこれは調が変わっているのだと思いますが、こうした進行もたぶんビートルズの中期くらいの曲にあったような気がします。このDに行くところを見つけることができなかったならば、この曲は没(ボツ)にしていました。そうした点もこの曲がビートルズに影響を受けたものなのかなと自分では思っています。

がんばって、曲を創って、唄って、録音して、営業して、解説までしちゃいました。(笑)

ぜひ、聴いてください。音楽配信中

時代小説に魅(ひ)かれて

2回目の緊急事態宣言が出てから数日たつ。毎週土曜日午後には阿佐ヶ谷の喫茶店にクラシック音楽を聴きに行くのだが、さすがに今回はためらった。その割には昨日、日曜午後には中野の街をプラプラ散歩してしまった。街は若者が多く、あまり年配の方は見かけなかった。だんだん新型コロナの実態がわかって来て、若者はコロナにかかっても自分の命は取られないと、もう感じているのだ。前回に比べて規制がゆるいので街中の雰囲気も穏(おだ)やかである。

また家の中で巣ごもりということになるのだろうか?感染者数はウナギのぼりでさらに明日以降も増えることになるだろう。こんな時は読書するに限る!と言いたいところなのだが、先週自分の何十曲もあるオリジナルソングの最後の唄入れ、ハモりの部分とかを近所の音楽スタジオに行って録音することに夢中になってしまい、仕事を完全に放り出してしまって、しばらくはそちらを優先しないといけない。家の中で1日中ボーッと本を読んでるわけにはいかないのだ。(笑)

確か前回の緊急事態宣言の時には、昔、楽しく読ませてもらった昭和の大作家、司馬遼太郎(しばりょうたろう)さんの時代小説について語った気がするが、今回は司馬さん以外の時代小説の話をしてみよう。

紹介したいのは、池波正太郎(いけなみしょうたろう)さんと藤沢周平(ふじさわしゅうへい)さんという二人の時代小説の作家さんで、司馬さんに負けず劣らず、この二人の小説も前に自分はよく読んだのだった。今更、私が紹介するまでもなく、どちらも超有名で、みなさんの方がよくご存知なのでしょうが、知らない方もいると思い、あえて笑われるのもかえりみず、ご紹介したいというか、二人の時代小説を自分が語りたいだけなのですよね。(笑)

有名政治評論家の田原総一郎さんが言うには、”3人の歴史小説は各々(おのおの)設定が違っている。司馬遼太郎は歴史に残る選ばれた大人物(だいじんぶつ)を取り上げ、池波正太郎は中間管理職、藤沢周平は名もなき市井(しせい)の人物を物語の主人公にするのだ。”と。ウ〜ム、深いではないか。さすが田原さん!

池波正太郎の代表作は何と言っても、昔、テレビドラマでも連載した「鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)」で、火事と喧嘩(けんか)が華(はな)の大江戸(おおえど)、深夜、丑三つ時(うしみつどき)、今で言う午前2時〜2時30分ころ、なんとか問屋に大泥棒が入り、何万両という大金が盗まれ、無残にもその問屋主人以下、家族もろとも全員殺害されてしまった事件が続発していた江戸時代、その大泥棒を捕らえようと火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)という組織が幕府によって結成され、その組長(くみちょう)さんが長谷川平蔵(はせがわへいぞう)という人物で、取り締まりは激烈を極め、皆がその長谷川平蔵を、鬼の平蔵、”鬼平(おにへい)”と呼ぶようになったのである。かっこいい〜!(笑)

私のオリジナルソング”火の玉”ライブ。前奏はフリーで、唄のところはリズムが和的二拍子、後半が聞かせどころで、拍子木(ひょうしぎ)を使って唄のリズムとは別に”火の用心~”、”火の用心~”と連呼するかつての大江戸を私なりに想像してつくってみた唄です。わざわざ拍子木(ひょうしぎ)を買いに下北沢まで出かけました。(笑)ぜひ、聴いてみませんか!?

テレビドラマでは、鬼平こと長谷川平蔵を歌舞伎役者の中村吉右衛門(なかむらきちえもん)さんが演じているのだが、これがまた陰影(いんえい)のある芝居で、渋(しぶ)いのである。最近はテレビで時代劇などやらなくなってしまったので、今の若い人は知らないのかもしれないが、私くらいの年代だと「鬼平犯科帳」は誰でも知っているというか、「遠山の金さん」、「大岡越前」、「水戸黄門」に次ぐくらいの人気があったと思う。ただ、ワンパターンで事件を解決していく「遠山の金さん」や「水戸黄門」に比べて「鬼平」はストーリーが複雑で、その分、視聴率がとれなかったといおうか、その分、大人向けの時代劇だったような気がする。

大泥棒を裏切って鬼平方(がた)に寝返り、何くわぬ顔で大泥棒の内情を探る密偵(スパイ)を”犬(イヌ)”と言った。女との情事も次から次へと出てくる。原作は何十巻にも上り、余りに膨大な量なので全部は読んでないのだが、10巻手前くらいまで、外出もせず、何もしないお正月楽しく読ませてもらったのであった。

それともう一つ、池波さんの代表作と言えば「剣客商売(けんきゃくしょうばい)」だろう。江戸時代中期、隠居(いんきょ)した老人の剣客が老中(ろうじゅう)田沼意次(たぬまおきつぐ)のもと、息子や40歳年下の元々はこの家に奉公(ほうこう)でやって来た若い女に手をつけてしまい、めとった妻と共に難事件を解決していく。テレビドラマにもなっていて、何年か前の最新のやつをちらっと見たところ、この隠居に出入りする腕自慢の女剣士、佐々木三冬(ささきみふゆ)を渡辺謙の娘の杏(あん)ちゃんが演じていたのだが、どうも原作とイメージが違うなと思ってしまった。主人公の息子、秋山大治郎と佐々木三冬は結婚するらしいのだが、その手前の巻で読むのを止めてしまったのだが、こちらの物語も池波作品らしく江戸の風情を感じさせる長編になっている。

そして池波さんと言えばグルメなのである。「鬼平犯科帳」も「剣客商売」も、どちらの中にもさんざん美味しそうな料理描写が出て来るのであった。池波さんは東京下町育ちなので、真っ黒な醤油(しょうゆ)を使った味の濃さそうな蕎麦(そば)や、すき焼なんかが場面、場面に出て来て、つい、よだれが出そうな感じになってしまい、池波さんが通ったお店のグルメ本の文庫本を買ったくらいだ。ただ血圧がだんだん高くなって来た今となっては、実際に食べるのを多少ためらってしまうのだが、、、。(笑)

池波正太郎は中間管理職を書くのである。

それに反して、藤沢周平さんは江戸時代の名もなき市井(しせい)の侍(さむらい)を描くのであった。藤沢さんの代表作は「蝉しぐれ」という作品で、これが泣けるのだ。確かあらすじは、東北の小藩につとめていた主人公の父親が政争に巻き込まれ、濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられ、切腹させられてしまう。父親の亡骸(なきがら)を主人公は大八車(だいはちぐるま)に乗せて、引いて家に帰る途中、急な坂道があって登ろうとするのだが、重たくてうまく登れない。賊(ぞく)家族の烙印(らくいん)を押された主人公を誰も助けてくれないのを見るに見かねて、幼なじみの隣家(りんか)の娘、お互い好き同士であったのだが、その娘が後ろからその大八車を押してあげて坂を登って行く。

この場面を読んだ時には、思わず涙がこぼれた。今、思い出しただけでも、またまた切なくなって来て目がウルウルしてしまう。(笑)

その後、この娘は藩主の寵愛(ちょうあい)を受けることになり、側室(そくしつ)となって江戸に行ってしまい、主人公も妻をめとり秘伝の剣術使いとして慎ましく成長していくのだが、またまた藩の争いごとに巻き込まれ、藩主の子を宿していたこの娘が命を狙われるはめになり、すったもんだの末(すえ)に助け出して、最後は秘伝の円月殺法(えんげつさっぽう)を繰り出し、藩の黒幕(くろまく)を切って、子供の頃からあった父親が濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられた長年の事件は解決する。その何十年後かに藩主が亡くなり、その幼なじみの娘から誰もいない秘密の宿に呼び出された主人公はその娘と肌を合わせるのであった。娘はこの後、出家(しゅっけ)して尼(あま)さんになると言う。逢瀬(おうせ)の後、主人公は鳴き止まない夏の蝉しぐれの中、馬を走らせるのだ。そう二人がまだ子供の頃、娘が蛇か何かに噛まれて主人公が助けてやったあの夏の蝉しぐれの中と同じように・・・。

”帰省”というオリジナルソングです。こちらライブですが、録音された作品には唄に入る前に蝉しぐれが聞こえてくる形になってます。やはり田舎に戻ると、いつの時代も蝉しぐれが聞こえてくるのかもしれません。蝉しぐれを聞きながら、子供の頃を想う・・・。

なんだか自分が詩人になったようで、またまた泣けて来た。(笑)このように藤沢さんの小説は風景描写とかが綺麗というか詩的な感じがある。「橋物語」という橋にまつわる江戸の人情物語の短編を集めた文庫本も近所の古本屋で買って読んで、とても綺麗だな、これは司馬さんや池波さんの時代小説ともちょっと違うと感心したりもした。

そしてもうひとつ、藤沢作品の中で私のお薦(すす)めは、「用心棒日月抄(ようじんぼうじつげつしょう)」である。今まで”にちげっしょう”と読んでいたのだが、今回調べると”じつげつしょう”とある。あいかわらず自分は馬鹿だなと思ってしまうのであるが、これが面白いんだ。

あらすじは、またまた東北の小藩の名も無い侍(ただし、腕利き)が藩の政争に巻き込まれ、江戸に出て来て用心棒をしながら事件を解決していくというストーリーで、読むとスカッとするのだが、それ以上に面白いのは主人公と女忍者、佐知(さち)との男女関係の機微(きび)だ。

最初、佐知はこの主人公の命を狙う敵方の密使として登場する。主人公は危うく殺されそうになるのだが、腕利きなので形勢逆転、反対に、突然襲って来た顔を隠した密使を切って、その密使は太腿(ふともも)裏に深い傷を受け、気を失ってしまう。主人公は最後とどめを刺そうとするのだが思いとどまり、密使の自分が切った傷の手当(てあて)をするのであった。

密使のまとった着物を左右に開くと、太腿裏から大量の血が流れている。早く止血(しけつ)しなければ。主人公がさらに目を上にやると、江戸時代の人間がパンツなど履いているわけはなく、在(あ)るものが見えなければいけないのだが、このずっと主人公の命をつけ狙ってきた密使には在(あ)るものがついてないのだ。

此奴(こやつ)、くノ一(いち)※か。。。

※くノ一(いち)・・・女忍者

主人公は驚き、股間を見て見ぬふりをして、その太腿裏の傷を止血、治療して、密使が気を失っている間に、その場を立ち去ったのであった。(笑)

それ以降、この女忍者、佐知(さち)が主人公がピンチに陥(おちい)るたびに、陰(かげ)になり日向(ひなた)になり登場して来て、主人公の味方になって助けるのである。それどころか男女の深〜い関係にまで陥ってしまい、二人は切っても切れない関係になって行くのだ。うらやましいな〜。

最後、事件がすべて解決し、主人公は江戸を離れ東北の小藩に戻ることとなった。田舎の藩には”まだ、戻って来られぬか?”と心配し、自分を慕って来る女房もいるし、溺愛(できあい)する子供もいる。佐知との逃避行(とうひこう)を江戸時代なので現代ドラマのようにするわけにはいかない。藩に戻れというのは上からの厳命(げんめい)である。

そして、いざ田舎に戻ってみると、いるではないかそこに別れたはずの佐知(さち)が。。。どう言うことだ??佐知は出家して、主人公の家の近くの尼寺にいるという。佐知は女忍者から尼さんになっていたのだ。さすが、くノ一(いち)!七変化(しちへんげ)!主人公は幸せな自身の家庭を築きつつ、佐知との逢瀬(おうせ)も続くのであった。終わり。。。

なんじゃこれは!?(笑)

こんな幸せなハッピーエンドがあっていいのか!?この主人公、幸せ過ぎる!大人の男の生活の理想だ!そう思ってしまい、「用心棒日月抄」の中の女忍者佐知(さち)は私の中では1番の理想の女なのである。(笑)今時(いまどき)で言うとフィギュア好きの男の子が、秋葉原でメイドカフェに行くようなものか?ちょっと違うような気もするが。まあ、同じような感覚である。(笑)

藤沢周平は名もなき市井(しせい)の者を描くのだ。

このように池波さんも、藤沢さんも、司馬さんに負けない毛色が違うが面白い時代小説を書いていて、読んでない方がいれば緊急事態宣言下、家にいるしかないので試しに読んでみるのもいいかもしれない。読んでもらっても私には何の得(とく)にもなりませんが。(笑)ただ今回、自分が昔、夢中になったこの三人の時代小説のストーリーを語りたかっただけなのですよね。(笑)

こんなこと書いてる場合じゃなくて、自分のオリジナル音楽の最後の作業を始めなきゃ、、、やることあるだろう、オマエよ。(笑)

オリジナルソング”火の玉”ダイジェスト。ライブより録音された音源の方が全然音が良いです。全編聴けませんが、興味でてくる場合は上のライブ版を聴いてください。今年の冬も空気が乾燥している大江戸は”火の用心”、”火の用心”。”火の用心”も地域によって掛け声が全然違うということを、この唄をつくることによって知りました。(笑)

”帰省(おやじの想い)”はギター弾き語り「YUKIO」8曲目。”火の玉”は作品「COCOLO」6曲目です。気に入ったらお買い上げいかがなものでしょうか? 

ギター弾き語り「YUKIO」音楽配信中!

「COCOLO」音楽配信中

2021 新年の抱負(ほうふ)

あけましておめでとうございます。

昨夜は久しぶりに、お酒を呑んだ後にブログを書いてしまい取りとめのない文章になってしまいました。お正月の寝起きに余りいい気がしなくて削除しようかとも思ったりもしたのですが、酔っている姿もこれまた自分ということで残そうと考え、あらためて本日、元旦お酒を飲む前、しらふの時にこのブログに向かおうと思いました。

前にも書いたと思いますが、自分はお酒が好きなのですがお酒を飲んだ酔っぱらった状態で音楽をやることはありません。なんだか酔いで誤魔化(ごまか)して、誰にも相手にされない自分の音楽の姿をさらけ出すのが嫌(いや)なのです。あくまで仕事であって真剣勝負なのです。お酒を飲みながら仕事をする奴(やつ)はどこにもいないでしょ。いや、飲み屋関係の人や夜のお勤めの人はお酒を飲むのも仕事なのでしょうけど・・・これまた失礼しました。

このブログは、そうした私の音楽を宣伝PRするものとして始めたもので、前に一度だけ酔っぱらって書いたことがあるのですが、今回二度目でやはり余りいい気がしない。生きるか死ぬかの瀬戸際(せとぎわ)に、酒を飲みながら右に行くか左に行くかの正確な判断はできないでしょ。

では、なんで今回酔っぱらった文章を残したかと言うと、自分の真(しん)の姿というものをなるべく包み隠さずさらけ出そうと思っているのであります。自分の音楽を理解してもらうには、もっと私自身の内面を知ってもらわないといけない、喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、慈悲、償い、恋、失恋、死、恐れ、病、後悔・・・、なんでもいいのですが、誰もが生きている間(あいだ)経験するものでしょうけど、私の唄はそれを結構ストレートに唄い上げているものから複雑なものまで様々(さまざま)で、1曲だけを聴いて理解してもらえるとは思っていなくて、何十曲かある自分の作品をまとめて聴いていただきたいのです。今、流行りの格好のいい表現手段というのが一番わかりやすいのでしょうけど、その範疇(はんちゅう)に自分の音楽はとどまって行かないのです。格好悪いのも自分・・・。人生いろいろあるよ、と。

商売上も、1曲ダウンロードして100円前後、ストリーミングサービスで無料で聴いてもらって1円にならない程度。それでは儲けがなく、アルバムという作品を買って頂きたいのです。

昨夜、このブログを書いた後に久しぶりにユーチューブで再生回数が1とか2しかない自分の動画を見ました。とてもいいと思います。(笑)紅白歌合戦をちょっと見てましたが、紅白の歌より自分の唄の方が多少、難しいですけど、いいと思います。今更、この唄をここが駄目だから売れないんだ、変更しろと言われても、アイデアをつめにつめた作品なので変えようがありません。(笑)

音楽に問題があるとは思いません。この歳で音楽事務所から声がかかるとも思ってません。自分で営業も含めてすべてをやらなきゃいけないので言葉も包み隠さずストレートに話します。自分で切り開かなきゃ。道を。この手で。今までそうした来たのだから。

今年もよろしくお願いします。2021 元旦

音楽配信「YUKIO」

音楽配信「YUKIO PIANO」

音楽配信「cocolo」

音楽配信「太陽」

音楽配信「月」