OLD-SCHOOLの少年

友達が欲しいよ」という自分の曲があって今回創った「月」という作品の8曲目に入っている。唄の内容は歳(とし)をとるごとにみんな仕事や子育てに追われて、子供の頃いた友達なんてすっかり忘れちゃって友達が欲しいよ~!という曲だ。30代の頃に発想したもので当時、仕事が忙しくなりそれまで子供の頃から暇さえあれば聴いて来た好きな音楽を聴く時間もやる時間も無くなってしまったという焦(あせ)りの中で生活していた思い出がある。その中の歌詞の一部分が”今じゃ新聞、経済面から読み始める自分がいる・・・”という件(くだり)があったりする。

また「世界はひとつ」という「COCOLO」という作品の中に入っている曲の冒頭では”キミたちは満員電車に乗って死んでいけばいい・・・”と他人の目も気にせず過激に唄っていたりもする。(笑)

この2曲の歌詞の中の”新聞”と”満員電車”という言葉が、自分とすれば今さら変更するつもりは無いのだが、世の中で使われなくなるかもしれないと最近は思っていたりなんかする。

もはや若者は新聞を読まないのだと言う。必要な情報はすべてはスマホから仕入れているのか、前に中華屋の隣で食べていた若者二人が新聞を読まないことをなんだか自慢していた。数年前に行ったライブバーの誰もが参加できるオープンマイクでは女の子が”友がフェイスブックで格好いいこと載せている~♪けど私はついていけない~♪”とかなんとか、うる覚えだが悩みをこんな感じで歌っていて、流行りに敏感な若者にとってはSNSは何を使うのか悩んでいても、その中の選択肢に手紙や新聞は無いのだ。通勤ラッシュの満員電車でも昔は周りに邪魔にならないように新聞を半分に折って読んでいるおじさん達がたくさんいたが今ではそんなにいなくなっているような気がする。

そしてその満員電車も今回のコロナ騒動では一番感染の危険があるということで、会社員の人達もほとんどテレワークになり自宅待機になったので、最近乗ってはいないのだがたぶん解消されているのではなかろうか。あれだけ行政が通勤時間をずらして下さいと言って満員電車を解消しよとしてもできなかったものが、今回の騒動では命がかかっているのでみなさんおとなしく聞いているのだろう。(笑)騒動が終わった後もテレワークで仕事が成立するのであれば電車通勤なんて要らない。そう思うと今後満員電車は無くなるのかもしれないと思ってしまった。

なんでこんな話をしたかと言うと、先日創った作品「月」の中の1曲「藤の花」という曲を誰か聴いてくれないかとプロモーション活動に最近は勤(いそ)しんでいて、その内の一つに海外にsubmit hubというサイトがあって、そこに登録しているアメリカやヨーロッパのレコードレーベルとかspotifyやインスタグラムにフォロワーがいっぱいいる今で言うインフルエンサー(世の中に影響力がある人)の人達に向けて自分の曲を彼らのブログやプレイリストに取り上げてくれないかと送りつけていたりする。(笑)当然相手にされないのだが、ようやくひとつ返事が返って来たと思ったら

You have potential in your voice, but music is a little bit too old-school as for me.

と書いてあった。”OLD-SCHOOL”…”オールドスクール”とは、、、純粋な日本人である私は

古い学校??????

と最初、素直に直訳して思ったのだが、”TOO”が前についているので”古い学校過ぎる!”とは、、、何か嫌な予感がして念のためグーグルで調べると、案の定

時代遅れ~!!!!!!!!!

という意味なのであった。(笑)

この外人何を好き勝手ほざきやがって~、と悔し涙を部屋の中で一人寂しく、コロナのおかげで外にも出れないので流したのである。

確かにもう何年もポップスやロックやジャズを聴かず、クラシックやデューク・エリントン、マイルス・ディビス、高橋竹山を聴いて来た・・・。ヨーロッパの方で流行っている無料の音楽サイトsound cloudのフォロワーがたくさんついてる曲とか聴くと本当にお洒落で格好よくできている・・・。しかし・・・、しかしだな”時代遅れ”と言うのは若者が年寄りに向けて馬鹿にする言葉である。自分は知らない内にもうイケてない大人なってしまったのか~!と途方に暮れるのだが、こういう蔑視(べっし)する言葉はこの外人に限らず日本人の音楽関係者からも昔から言いたい放題言われて来たので意外に立ち直りも早かったりする。(笑)

ただ、”OLD-SCHOOL”と言われて自分の唄を客観的にみると、”新聞”や”満員電車”といった上記のように若い頃創った歌詞の中の言葉がもはや今の時代や今後訪(おとず)れるであろう未来に合わなくなって来ているのも事実だ。そこがちょっと引っかかったので今回このブログで取り上げてみたのである。

”OLD-SCHOOL”のグーグル検索ページを更に下の方にスクロールすると、「古いけど魅力的」という前向きな意味もあると書いてあった。古いからこそオリジナリティがあり、歴史も感じられ趣(おもむき)があるという。音楽ソフトのサンプリング音の中にも”OLD-SCHOOL”というジャンルがあったように思う。悪い意味で使われる言葉でも無いようだ。

スティービー・ワンダーが歳をとってから創った曲に「new」という曲があって英語で何を唄っているのかわからなかったのだが、なんとなく”周りはもう自分の唄を古臭いとヒソヒソと言うのだが、違う、オレはまだ新しいん(new)だ!”という意味で自分の中で勝手に解釈していた。(笑)その気持ちが今回わかった。

当然と言えば当然なのだが、いくら自分の曲を送りつけても他の外人たちは返答も無く全く無反応で、この外人だけがメールを送って来てくれたので実はとてもいい奴(やつ)なのかもしれない。この曲のアタマ出しをちょこっとだけ聴いた素直な感想なのだろう。しかしこの風に負けたくない。自分の曲は”OLD-SCHOOL”なんかじゃない!自分の唄にはまだ可能性があると信じている。笑いたければ笑ってくれ。

若かりし頃、みんな永遠の青年だった。周りは”満員電車”に乗るような大人になりたくないと随分大人を軽蔑(けいべつ)していた。しかしほとんどの人間がそうした”満員電車”に乗る大人になって行った。そしてそうした奴に限って歳をとった今、若者に向かってため息をつきながらこう諭(さと)すのだ

昔はこうじゃなかった、最近の若い者は・・・

と。

「世界はひとつ」、作品「COCOLO」の中の5曲目です

音楽配信やってます。ぜひ聴いて下さい。

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緊急事態宣言下での司馬さんの言葉

緊急事態宣言真っただ中の都下なのだが、街に出てみると意外にたくさん人が出ていると言おうか・・・商店街の中には肉を求めて行列ができていたりなんかして普段と変わらない光景が繰り広げられていた。これで大丈夫なのかな?と思うのだが、来週あたり位からは今日都知事が指定職種に休業要請するようなので店を閉めたりするところもかなり出て来るのだろう。

今朝のトップニュースは世界恐慌以来の景気の落ち込みということだった。これから世の中どうなって行くのだろう?心配しても始まらないが、現実生活に本当に影響が出て来るのはこれからなんだろうな。

こんな時は本を読むに限る!と言いたいところだが、最近はほとんどお酒ばかり飲んでいて読みかけの文庫本に挟(はさ)まれた栞(しおり)の位置はずっと同じままだ。お正月もそうなのだが、大体自分は家にお酒があればある分だけ飲もうとしてしまう。外出自粛ということなので、食料は家族に任せ、なぜか自分はビールなのだがお酒のまとめ買いだけをしてくる。(笑)しかし結局は数日の内に飲み干してしまってかえって平時より格段に飲む量が増えてしまった。(笑)

これでは如何(いかん)!と思い、ここ数日は多少知恵を絞ってビールをグラスに注(そそ)がずに、缶のまま口をつけるようにしたところ飲む本数が減った。グラスに注ぐと泡が出てしまいその分苦(にが)みが消えてゴクゴクと風呂上りに飲む量が増えてしまうのだが、缶のままだと苦みがまだグッと凝縮されていて余り一口で飲む量が進まないのだ。この禁酒方法ビール好きの人には参考にして頂きたい。(笑)

せっかく本の話になったので久しぶりに自分の読書体験をお話したいと思う。今回は時代小説を色々読んだ楽しい思い出を語りたい。昔は駅の売店の新聞棚の上によく文庫本の棚が吊るされていて、そこによく置いてあったのは”赤川次郎”とか”松本清張”、”向田邦子”といった有名な作家さんたちの本だと大概(たいがい)決っていた。

自分は子供の頃はこういう大家といわれそうな作家の本を嫌っていて、”村上春樹”とか”吉本ばなな”とか当時新進気鋭の作家の小説をこれがお洒落なんだといわんばかりの感じで読んでいたものだった。(笑)「文豪」という言葉そのものが余り好きでなく、そうした臭いを漂わせていた有名な作家の小説を意味なく嫌っていた。

それを覆(くつがえ)したのが司馬さんだった。司馬遼太郎(しばりょうたろう)。私が語らずともみなさんの方がよく知っているかもしれないが一応説明すると、幕末から戦後までの右肩上がりの時代だった小説を多数書いてきた昭和の大作家で、NHKの大河ドラマでも何度も取り上げられ、代表作に「竜馬がゆく」とか「坂の上の雲」とかあったりする。

お正月に家族の田舎に行くと何もすることがなく、近くの海を眺めに行くか部屋に籠(こも)って本を読まざるをえない状況になるので、東京駅の売店で田舎で司馬さんの本を試しに読んでみるかと買ったのが司馬さんの文章との出会いの始まりだった。

子供の頃のイメージとすれば上で述べたように、文豪の人たちの中の一人という感じが強かったのだが、読みだすと止まらなくなってしまった。特に「竜馬がゆく」は新聞の連載小説だったらしく長編なのだが、中だるみもなく終わりまで一気に読めた。坂本龍馬にほとんど興味がなかったのだが、この小説のおかげで幕末から明治維新にかけて起こった歴史上の事件や人物になんだかとても詳しくなってしまい(笑)、10年くらい前に大河ドラマでやった「龍馬伝」を見ながら隣で無理やりこのドラマを見ることに付き合わされた家族に、”武市半平太は人を殺める指令をいっぱい出していたから、最後は切腹させられたのだよ~。”とか”お竜(龍馬の妻)はここで風呂上りに素っ裸になって龍馬に幕府の取り締まりが来たのを知らせたのだ~!”と有名な寺田屋事件とかを実は司馬さんからの受け売りの言葉なのに、まるで歴史家のようにもの知り顔で解説したのだった。(笑)

司馬さんが坂本龍馬を有名にした張本人で、この小説がないと坂本龍馬は未だに歴史の闇に消されていたと言っても過言ではないのだと思う。自分の子供の頃は歴史の教科書に坂本龍馬の名前は無かったか、西郷隆盛のように太字で記されず細字だったような気がする。今じゃ聞く所によると堂々と教科書に載っているらしい。

このように司馬さんは他の人とはちょっと違った歴史のとらえ方をする。この人はただの昭和の文豪ではないと最初に思ったのは、小説ではなく司馬さんが日本全国を旅歩いてその地方地方の歴史を紐(ひも)解く「街道をゆく」というエッセイの中で、”日本人は弥生時代にお米を大量生産するという稲作システムを開発した。そのおかげで楽をすることを覚えてしまった。”と書いていたことだった。この文章を読んだとき我ながらハッとした。楽することを覚えてしまったと言われても・・・しかし、、、確かにそれ以前は日本人は個々の狩猟生活を送っていたはずで、私がそれまで常識と思っていた私も含めて日本人は先祖代々脈々と和を持って良しとする農耕民族であるという先入観をひっくり返されてしまったのだった。米を周りのみんなと協調して真面目につくり、神様に感謝して美味しく食べようという一般の日本人が誰もが思っている自分たちの日本人観をこの人、元々信じちゃいないんだ。。。

日本人は農耕民族じゃないのかよ~!子供の頃からそう教えられて来たじゃないか~。日本人の主食は米じゃないのかよ~!食卓の上にごはんがないと駄目だろ~。白いごはんと一緒にオカズを食べるのが一番美味いだろうよ~!それが日本人じゃないのか~。ごはんは日本人の心のふるさとだろう~!ところが司馬さんはそんな日本人の大半が思っている声を”お前らそんな甘いこと云ってるから駄目なんだ。”と一蹴してみせたのだ。

俺たちは農耕民族じゃない!

こう思ってしまい一遍(いっぺん)に司馬さんが好きになってしまったのである。(笑)

サッカーのワールドカップ日本代表が世界で戦う時、”個でなくチームの和”をいつの代表監督も強調するのだが違っていると思う。試合を決めるのは絶対にゴール決めてやる!という強靭な精神を持ったマラドーナのような個なのだ。日本の特長はそんな気の合った友達同士のぬるい団体性になんか無く、”武士は食わねど高楊枝(たかようじ)”という格言があるように、いくら腹が減ってもその素振りすら見せずにやせ我慢する侍(さむらい)精神であるはずなのに。(笑)

今、日本いや世界が戦後最大の危機に直面してるという。何年か前にどこかの新聞の書評で司馬さんが今の時代生きていたらどんな事を言っただろうか?と書いてあったが、世間が混沌(こんとん)としている今こそそんな司馬さんの歴史観を聞いてみたい。なんて言うのだろうな?

世界は楽することに慣れきってしまっていた。

と言ったりしてネ。(笑)音楽配信中 聴いてみませんか!?

世界はひとつ

小さな唄とコロナウィルス

コロナウィルスが猛威(もうい)をふるっている。下手(へた)におちおち外出してられない。そんな時に限って家のガスが壊れたりして風呂に入れず近所の銭湯(せんとう)に行くはめになったりする。銭湯なんか行くと湯船の中にコロナウィルスがウジャウジャいそうでほとんど人はいないだろうと思ってたのだが、ところがどっこい結構人がいるではないか!おじさん達が気持ち良さげにお湯につかっている・・・(笑)、隣で体を洗っているおじさん二人の世間話に耳を傾けると、”オレなんかもう抗体ができちゃってるからヘッチャラだよ~。”と、また呑気(のんき)なことを言っている。(笑)

最近は有名人までかかっちゃっているので、街のいたるところでウィルスを持っている人たちもいっぱいいるのだろうな、その中の一人でも銭湯で体を洗えばみんなうつるはずだ、集団感染!クラスターだ~!と怯(おび)えるのだが、なぜ故(ゆえ)か銭湯がクラスターになったというニュースは聞かない。なぜだろうか?

ウィルス伝染の仕組みはよくわからないが、昨日の銭湯は怯えながらも気持ち良かった。(笑)久しぶりに広い空間でお風呂に入ると開放された気分になる。ただ気分は良かったがウィルスがうつっているようであれば仕方がないわけで、肝心(かんじん)の体調は本日も悪くない。(笑)しかしこのウィルスの特徴は5日後くらいに発症するらしいので油断してはいけない。注意深く自分の体調を見守らなければな。

このように私は意外にちゃんと世間の風に合わせようとする人間でもある。周りがどうなろうと知ったことじゃない!と、そういう素ぶりを見せることも多々あるのだが、最低限の一般常識は持っているつもりだ。エヘン!

テレビで伝えられているニュースなどではライブハウス等で大声で歌って唾(つば)を吐き出すのはかなり危険とのことだったので、先日のギター弾き語りライブではお店に気を使ったつもりはないにしろ、いい機会だと思い意識的に声をかなり小さくして唄ってみた。たぶん声を小さくすれば映(は)えるのではなかろうかと自分では以前から思っている曲があったりして、今回それを試してみたのである。

子供の頃から年末の紅白歌合戦を見るたびに、周りにいる家族が”ウ~ム、この歌手は声が出てない・・・。歌唱力が落ちたな・・・。”と評論家のようなコメントを発するのだが、自分としては声量があることや喉(のど)のコブシを回すこと(当然声を大きく出すとコブシも自然と回って来る)が歌の上手い、下手の判断基準にはなっていなくて、なんでこんなこと言うのだろうとずっと不思議に思っていた。紅白歌合戦を見なくなったのもこうした経験が原因になっている気がしないでもない。

また若い頃はエネルギーが有り余っているので、周りがそうだったように自分も負けじと大きな声でがなり立てもした。しかし心の底ではどうも違うような気がずっとしていて、自分の身の丈(たけ)で唄うのが一番いいのだ。その日の体調や環境もあるし、無理に声を張り上げても仕方がない。最近はもうそう思うようになっていたのだが、井の頭公園で唄うようになってまたまた声が段々大きくなって来たりもしている。(笑)マイクもなく外で唄って誰も振り向いてくれなければ当然、声も大きくなるってものだ。(笑)

ただ井の頭公園では仕方が無いにしても他の屋内の音響があるところなんかでは、こんなに大きな声で唄わなくてもいいのにと内心思っている曲も何曲かあって、密閉空間では唾(つば)をなるべく出さないようにとのことなので、フルアコ弾き語りでライブバーではなるべく小さく唄ってみた次第なのである。

小さな声の「夜の海辺」

「夜の海辺」(アルバム”cocolo“8曲目)と「キミの笑顔」(アルバム”太陽”5曲目)という曲で、どちらもラテン調のリズムになっている。CDに入っているバンド形態の完成形アレンジでも曲調に合わせて自然とボーカルも小さめに入っているのだが、更に意識的に小さく唄ってみた。すると自分とすれば肩の力が抜けて想像した以上にいい感じになったのではないかと思ってしまった。(笑)

試しに撮った動画をニコニコ動画に上げてみたのだが、はじめて見ず知らずの人からコメントがついたりして嬉しかったので、調子にのってユーチューブにも上げたのだが、しかしながら誰も見てくれない。(笑)誰も見てくれないのは今にはじまったことじゃないので余り気にはならないのだが、自分としては結構この路線で唄ってみるのもいいかもしれないと思っている。

昨年亡くなったボサノバギターの名手ジョアン・ジルベルトの追悼(ついとう)記事のひとつに彼の功績は世界中の歌が大声一辺倒になっていくのに抗(あらが)って、小さな声でも十分魅力的に聴こえる楽曲を創ったことだと書いてあった。なるほど、

小さな声の唄があってもいい。音楽配信