日当たり良好。窓から日差しが眩(まぶ)しいくらいに差し込んで来る。長袖(ながそで)を羽織(はお)っていたのだが脱いでしまい、半袖(はんそで)になっている。
このブログを書くのも久しぶりだ。井の頭公園で休みに唄いに出て以来、時間が取れなくなってしまった。まあ、人気ブロガーになりたいわけでもないのでいいか。今は久しぶりに羽を伸ばしてモニターに向かっている。
何を書くにも今回は井の頭公園での体験を語るしかないのだろうな。ほとんど最近は休みになると1日中、日が暮れそうになるまで唄ってくる。先週は高円寺フェスの路上ライブもあって連続で唄ったりして休み明けには多少声が枯れたが、今はもう戻っている。
50過ぎてる大人のやることじゃないな。と、思いつつもたぶんずっと続けて行くのかもしれない。若い頃、自分の親を見て50代なんてずいぶん分別があって大人の顔をして世の中を語っていたように思うのだが、自分を顧(かえり)みてなんだこの様(ざま)は!?と思ってしまうのであった。
鏡(かがみ)だけを見れば、髪を染めてないので、50代半ばのおじさんがそこにいる。ただ気持ちはなんだろうか、大人の世界に憧(あこが)れていた子供の時のままだ。傍(はた)から観ると白髪だらけのおじさんが公園でわけのわからない唄をうたっているだけで、何のために生きているのかわからないのかもしれないが、自分とすれば幸せなのである。やっぱり自分は唄をうたっていたい。それをかみしめてしまった。
SNSでライブ配信してやろうと思いスマホで撮るのだが、なぜだか5分も持たない内に終了になってしまうので、最近使っている安い専用の小さいカメラで撮って家に帰ってから録画された動画を見たりする。自分の唄のチェックをするためだ。
ギターをジャカジャカ弾くだけなのだが、ギターを弾くことに注意が行ってしまい唄がどうも疎(おろそ)かになっていることに気づいた。自分の唄はあくまでも唄が中心であって、楽器を鳴らして聴かせたいわけではないことを再認識してしまった。たくさん唄うので歌詞帳を載せるために譜面台を立てているのだがやっぱりできるだけ歌詞は覚えて唄った方がいいと思った。井の頭公園で唄っている間に歌詞を全部覚えたいといおうか、体に覚え込ませたい。それがなんとなく自分の幸せ感のような気がする。
今週の土曜も唄いに行く。明日がどうなるかわからない日々が続くが、唄っている時だけはすべてを忘れて唄に集中していたい。音楽配信